見出し画像

いろいろとお金が掛かる(エッセイ)

昨日、職場でデートの話題になった。私の職場は現在男性3人の体制で、奢られることを当然とする女性とは付き合いたくないということで、3人の意見は一致した。その流れで、「カネの掛かる女性は、カネ持ちを自慢したい男性との間で、需給が一致してますよね」と言ったら眉をしかめられた。どうやら、難しい話はするなということだった。「需要と供給」というのは難しい話なのか。

40代の男性上司はデート代を男性が払うのが当然だった世代で、20代半ばの同僚は割り勘が当たり前とのことだった。ちなみに私は職場に彼女の存在を隠しているので、ぎこちなくシラを切っていた。デート代は食事のみ奢っている。



それにしても、生きることに金がかかるとはどうしてなのか?何故、ただ生きるのに金がかかるのか?

ひと昔前は、金が無くてもなんとか生きていけたようだった。先祖から引き継いだ家に住み、共同体内で食料を交換して暮らすことが可能だった。文明が進むといえば大仰だが、生活が便利になればなるほど、生活にお金は必須になっていった。「これは資本主義の全面化ですね」と言えば、難しいと眉をひそめられるだろうか。

大森靖子的な「サバイバル社会」という問題圏も、その裏には「資本主義の全面化」という変化がある。恋愛して結婚するにも、病院に患るにも、学校に通うのにもカネが要る。学費や医療費はむしろ上がっている。私はそれはオカシイと思う。



余談だが、私と彼女は8月を「節約月間」と決めている。二人での外出で散財しないのはもちろん、私一人でも無駄な買い物や遊びは控えていて、それなりに節約できているつもりだった。ところが先日彼女に「今月は家賃込みで13万切りそうです」と報告された。23区でどうすれば月13万で暮らせるというのか!私は恥ずかしくなった。
彼女の謎が、またひとつ増えたのだった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?