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小説 #9

駅の西側には森につづく小さな小道があった。人が踏みならしてできたその道は、口を開けて私たちを待ち構えているようだった。

口の中が乾いていた。いつのまにか口を開けていたようだった。リュックからペットボトルのお茶を取り出した。水面が泡だっていて苦かった。

前を歩く母に続く。ゆるやかなカーブを左に曲がると、奥から犬を連れた初老の婆が歩いてくるのが視界に入った。クリーム地に花模様のカットソーを来ている。赤い縁の眼鏡が中学生のようだった。リードにつながれた犬は行儀が悪く、しきりに吠えては走り出そうとする。婆は慣れた手つきで力いっぱいリードを引っ張り、そのたびに犬が後ろに飛ばされていた。

「あら、どこに行くの?」
「湖に向かっています。娘と湖を見に来たんです。」
「あらそう。今日は風も穏やかだから、ゆっくり過ごすといいわ。あなたたち、疲れてるでしょ。」
「どうしてですか?」
「わかるの。でも、吸い込まれるように死ぬこともあるから、気をつけるのよ。」
なぜかそんな会話が聞こえてくるようだった。
会釈をして婆とすれ違うと、ほのかに獣の匂いがした。

歩いても歩いても、湖にはたどり着かなかった。私たちはだんだん口数が少なくなり、緩やかな傾斜にむかって黙々と足を差し出すだけになった。母は「大丈夫、大丈夫」と繰り返しながら、次第に魂が抜けていくように揺れた。

太陽が一瞬薄い雲に隠れ、地面に映った影が消えた。右から風が吹いて、髪が目に入った。母が「あ」と短い音を発すると、目の前に駅があった。

母はなぜか満足そうな顔をしていた。私も特別湖が見たいわけでもなかったので、同じような表情を作った。二人で足についた泥を落とし、そのまま電車に乗って帰った。どこかで帽子を忘れてきたことに、あとで気付いた。

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