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「鬱ロック」について(エッセイ)

今日は久しぶりに引用から書いてみる。普段フォローしているTwitterアカウントの投稿が、知らぬ間にバズって拡散されていた。引っかかるものがあったので、今日はこれについて書く。

「鬱」を「病気」として見れば「治療」が必要だということになる。けれど「鬱」には当人が鬱化する背景や土壌があって、その点がほかの「病気」とは異なる。

当人が「鬱」化するのを「病気」と捉え「治療」を施すという発想は、「治療」という行為の暴力性に無自覚すぎではないだろうか。誰しもが「鬱」になるような環境や社会であるのであれば、改善されるべきはその環境や社会のほうだ。



「鬱ロック」という言葉がある。"聴くと鬱になりそうな音楽"とか"暗い奴が愛聴するロック"といった意味の侮蔑的な言葉だ。引用したツイートは、「鬱ロック」の代表格であるSyrup16gのリリースタイミングで投稿されたものだった。

"「鬱」は病気だから個人を治療しましょう"という発想には、社会を改善していくという視点が欠けている。殆どの子供が14歳になると社会に絶望し、「厨二病」などと揶揄される社会など、日本以外にあるのだろうか。

そもそも芸術とは社会の写し鏡なのであり、「鬱ロック」という言葉が共有できるということは、それだけ日本社会が病んでいるということだ。「厨二病」という言葉が登場してから、果たして日本社会に改善などあっただろうか。

私はこれからも「鬱ロック」を聴き続けると思うし、「鬱ロック」を擁護し続けると思う。それは社会を正しく反映している表現だからだ。《君に存在価値はあるか/そしてその根拠とは何だ》などと問うような社会のクソさを、改めて考え直すべきだ。

11/24追記
鬱になりつつある当事者としては、鬱になると感情は「暗く」ならずに「消えていく」方向に進みます。感情の存在が表現されるのは、すごく大事なことだと思います。

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