『Kintsugi』評 後編(「夕方ミラージュ」と「KEKKON」、サバイバルのための結婚)
#1「夕方ミラージュ」で描かれるのは、家庭という空間に囲われて腐っていく主人公の姿だ。結婚して家庭を築いたのに埋められない孤独と絶望。
夕方、夫と子供が帰宅するまでの僅かな時間。主人公は家庭からの逃亡としての不倫へと傾きかけている。裏切りでもいいから自由になりたい、と、欲求不満が爆発しかけている。
面白いのは、「日本」という言葉が登場することだ。主人公は家庭内に閉じ籠められていることを<白い日の丸>に喩えている。専業主婦的な孤独を、「日本社会に生きること自体の孤独」と重ね合わせている。<凍った白い日の丸>の血の通わない部分が、私なのだ。そして私は、それに絶望している。
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#11 「KEKKON」で描かれる結婚からは、恋愛とは異なる文脈が感じられる。
個人が相互に影響しあうのではない、<他人のままでOK>な恋愛。男性に養ってもらうためではない、自立した人間同士の恋愛。
それは相互に依存しあうことではない。そして、扶養関係の中で助けられながら生きるのでもない。ひとりの自由な人間として、サバイブしていくこと。「KEKKON」で描かれる結婚では、「恋愛」がむしろ否定さる。
むしろ「KEKKON」の結婚は、自立した個人が生き残るためにタッグを組む行為に似ているだ。大森靖子の描いた「結婚」には、「共闘」と言い換えることができる。
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大森靖子が、社会的に卑しいと言われる行為を肯定するのは何故か?生まれた顔に整形でメスを入れることも、パパ活で身体を売ることも、自撮りを加工することも肯定する。何故か?それは生きることは「サバイバル」だからだ。
もう私たちは何も頼ることができない。もう、私たちを縛るものが、私たちを護ってくれることが決して無いことも、よくわかっている。だからこそ、「KEKKON」するのだ。そして、サバイバルのための仲間がいること、人生にそれ以上の幸せなど無い。
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