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跡/ART

伊藤亜紗「記憶する身体」に、次の挿話が紹介されていた。

 認知科学者のアンディ・クラークは、テトリスを例にあげながら、この能力について語っています。テトリスをプレイするとき、私たちは落ちてきたピースをくるくる回転させます。あるいは左右に平行移動させてみるかもしれません。
 こうした操作をなぜ行うのかといえば、とりもなおさず「考えるため」です。どの向きでピースをはめれば、画面の下に堆積しているブロックがつくる谷の形に適合するか。あるいは、さまざまな谷のどこにピースをはめ込むのが、最適な選択か。
 落ちてくるピースをただ眺めるだけでは分からないのに、それを回したり移動させたりすれば、おのずと答えが見えてきます。私たちは「見ながら考える」、つまり視覚的なフィードバックを組み込むことで、自分の脳だけではとうていできないような複雑な思考を、簡単にこなすことができるのです。

上の一節は、メモをとる盲目の女性のインタビューの中に挿入されていた。その女性は、紙にペンを走らせることで思考を整理しているという。彼女に限らず、人間は道具を使うことで脳の機能を拡張させ、本来脳の持つポテンシャル以上の深い思考を行う。では、このとき生まれる「メモ」とは一体、何なのだろうか?思考の跡として残ったソレは、どのような意味を持つものなのだろうか?


たとえば目の前に真っ白な紙があって、線や色を配置していく。無心で空間を埋めていても、そこでは「描きながら考える」という行為が行われている。一般に「創作」と呼ばれるものは、この描きながら考える行為を指す。言い換えれば、「思考の跡」を私たちが「アート」と呼ぶ。





アートが「思考の跡」なのだとすれば、アートを鑑賞するとはどういう行為なのだろうか?作者の考えを「辿る」ものでもあるし、その先を「引き継ぐ」行為ともいえる。いずれにしても、作者の思考を推測し、鑑賞者自身の解釈を追加する行為だといえる。


アートを「思考の跡」と定義しなおすことは、その周辺にある「鑑賞」「批評」「キュレーション」といった言葉の再定義をうながす。考えることを定義の側から肯定すること。そこから考え直す必要がある。

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