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「思考のネガ」としての「ボケ」 2024/06/30

疲れていたのか、今日はなかなか恋人が起きてこなかった。私が駅で所用を済ませて、帰ってきてもまだ部屋が暗かった。起こさないようにカーテンを開けて、Philoshopyの復習をする。

今週の『差異と反復』は、「愚劣」という概念が登場した。ドゥルーズ以前の哲学が「誤謬」という概念で真なる「思考」を背理法的に正当化していたのに対して、ドゥルーズは思考の否定としての「愚劣」に創造性を見出す。そもそも、誤謬以外の愚劣・迷信・無知・忘却・狂気・悪意・錯覚・疎外・・・等、哲学史は思考のネガを発明する歴史なのだと紹介されていた。

「思考のネガ」という言葉を考えながら、ふとお笑いのことを考えていた。最近のお笑いは、唯一の真であるツッコミを背理法的に肯定する、誤謬としてのボケばかりになってしまった。お笑いの創造性というのは、ボケが既存の価値観を転覆させるような愚劣さを示すことだといえるが、まるで創造的であることに作り手も観客も耐えられなくなってしまったかのようだ。「愚劣」と「真なる思考」の境界線を行き来していたお笑いは、だんだん正しさに終始するものになってしまった。

感想コメントにはお笑いのことは書かなかった。かわりに、本文から「健康」という単語を取り出して、人間が考えないようにする性質は本能的なものなのだということを書いてみた。書き終えたころには日も暮れて、恋人は終日疲れた様子で、もう一日泊まって帰ることになった。

夕飯後、「ビール飲んでいい?」と断りを入れてから、冷蔵庫から缶を持ってきた。貴方の前で酒を飲むのは初めてだよねと確認すると、付き合う前のときに飲んだことがあったと言われた。指摘されても思い出せなかった出来事も、記憶なのだろうか。

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