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軽やかに生きる以外に道はない
いずれにしてもここで主体というのは、哲学的、マルクス主義的意味での疎外された本質、いいかえれば疎外する審級によって捕捉され、自らにたいして他者になった本質ではない。なぜなら厳密にいえば、「同一なるもの」や「同一なるものとしての主体」はもはや存在せず、したがって同一なるものの他者性も本来の意味での疎外も存在しなくなっているからだ。(中略)消費者は自分の持っているモデルのセットとその選び方によって、つまりこのセットと自分を組み合わせることで自己規定を行う。この意味で、消費は遊び的であり、消費の遊び性が自己証明(アイデンティティ)の悲劇性に徐々に取ってかわったということができる。
消費社会ではアイデンティティという概念は存在しない。自らの本質というものは存在せず、その疎外に対する苦悩も成立しえない。ただ、ショーウィンドウに映る自らの姿を、記号の集合として捉えるのみだ。
ボードリヤールは、それを「遊び」と表現する。自己のアイデンティティや疎外に取り憑かれるのではなく、記号の集積としての自分自身と遊ぶ。記号とは戯れることしかできない。自らを悲劇的に思い悩むような身振りはもう成立しない。軽やかに生きる以外に道はないということなのだろう。
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休職中に読み終えようと思っていた『消費社会の神話と構造』をやっと読み終えた。難しくて内容が頭に入ってこない日もあったが、充実した読書体験だった。
本は読了して終わるということはなく、関連書籍が無数に登場する。モース→バタイユという系譜を辿りたい気持ちもあり、インターネット以降の記号論への関心も出てきた。とりあえず手元にあるニーチェ『ツァラトゥストラかく語りき』から読もうと思う。結局、読書も本との戯れだ。