見出し画像

小説 #7

母とはじめて遠出をしたのは、中学に入って初めての夏休みだった。

その日も母は食卓のいつもの席に座り、難しそうな顔をしていた。窓の外から蝉の声が響いてくる、空が青い夏の日だった。窓を開けると蝉は想像以上に近く、羽のこすれる音が間近に届いて耳障りだった。

クラスにいた何人かの友達は部活の練習だった。八月のコンクールに向けて追い込みに入っているというようなことを言っていた。その間、私は休み期間中に見ようと思っていたレンタルビデオや本をコツコツと消化していた。友達が休みの日は自転車でスーパーに溜まった。何をしなくても、話をしているだけで一日が終わった。話題は尽きなかった。

その日は朝のニュースを見終えてテレビを消し、積んであった小説を半分ほど読み終えたところだった。二人分の昼食を準備しようかと立ち上がったところで、母に声をかけられた。

「夏休みだし、湖に行かない?」
「湖?海じゃなくて?」
「うん。海へは友達と行っておいでよ。私は湖に行きたいの。」

私は今日見ておこうと思っていたレンタルビデオのことを考えた。返却日までは余裕があったので、急ぐ必要もなかった。

「今から?」
「うん。すぐ行けるし。」
「湖ってどの辺にあるの?」
「電車で一時間くらい。意外と簡単にいけるのよ。」

母がなぜ突然湖に行きたいと言い出したのかわからなかったが、特に嫌がる理由もなかった。それに、母に遊びに行こうと誘われるのは初めてで、少し嬉しかった。

行くと決まると、私たちは素早かった。私は急いでパスタを茹で、母は手早く化粧を済ませた。さっと食べ終えると二人で着替えて、一時間後には玄関を出ていた。

「どうして湖なの?」私たちは橙色の電車に並んで座りながら西を目指した。
「うーん。わからない。でも、行けばきっと分かると思う。」母はコンビニで買ったペットボトルの緑茶を両手で握りながら答えた。
「お母さんはその湖には行ったことあるの?」
「ないけど、連れて行ってあげたい気がしたの。気に入ってくれるはず。」

私は自分が湖を気に入る想像がつかなかった。山や、虫の多い自然は好きではなかった。わざわざ電車賃を払ってまで行くようなところなのだろうか。

車内の冷房は風が強く、その割に停車駅が多くて涼しくなかった。背中に当たる日の光が痛くて、首の後ろが焼けないか心配になった。汗が引きはじめ、母がペットボトルのお茶に口をつけたところで、電車は予定していた駅に着いた。出発してからぴったり一時間だった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?