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抗議すること(エッセイ)

ここ最近の美術界を賑わせているのは、名画に食べ物で汚す、一連のデモ活動だ。環境保護団体を名乗るメンバーによって、モネの積み藁にはマッシュポテトが、ゴッホのひまわりにはトマトスープがかけられた。彼らは、石油使用の即時停止を訴えるために一連の犯行に及んだと主張している。

アート作品と環境保護は無関係であり、人類全体の遺産を破壊する行為は許されないという批判が、世界中から上がっている。



少し前、抗議活動に関連して世間を賑わせたのはひろゆき氏だった。氏はTwitterに、沖縄の米軍基地建設反対の座り込み活動を揶揄する内容を投稿して、物議を醸した。

結果的に、米軍基地建設の是非についてだけでなく、座り込み活動自体の意義や有効性が問われ直される事態となった。



社会の体制に反対するか適合するのか。そしてその意見を主張する方法が合法的か非合法的か。この「反対/適合」「合法/非合法」という二つの基準において、「抗議すること」の意義が、現在問われているのではないか。

抗議がひたすら無意味化されている社会において、抗議することにどのような意味があるのか。そして、それはどのような方法が採られるべきか。大袈裟にいえば、それは「社会の中で人間が生きるとはどういうことか」という問題でもある。

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