日記と当事者(エッセイ)
昨日は「ことばの学校」の初日で、当事者性と他者性というテーマだった。何かを書くときには、およそ「自分のこと」と「他人のこと」という二つのベクトルがある。授業では、当事者性を巡る状況を確認しつつ、自己と他者という区分が脱構築的に融合されている例が検討された。
自分/他人の中に、それぞれ自己/他者が存在している。4つは明瞭に区分されるわけではなく、互いに溶け合うように曖昧な境界を有する。日記というのは当事者そのもののはずなのだけれど、どこか他人のような気持ちがする。他人の日記も自分のことのように思える。
質疑応答では、当事者性と身体性について質問が出て、講師の佐々木敦さんは小説は見えない(身体性に限らず)のが良いところなのだと答えていた。脳や臓器だって身体なのだから、文体も身体性だといえるとも言っていた。活字というのは、それだけで他人のようにも思える。ことばは筆跡や声と切り離されてしまった。