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散髪・久しぶりに批評を書く(エッセイ)

美容室に行った。
いま通っている美容室では2-3コ歳下の女性が担当している。1年程前からだ。喋って客の反応を確かめながら切っていくスタイルらしく、私が雑誌を読んでいても声をかけてくる。私もお喋りが嫌いでは無いので、これまで気になっていたこと(美容師さんの休み事情やら指名料の配分やら)を時々質問したりしていた。

昨日は、「ツーブロックをやめて少し短く、けど次回またパーマを当てたいから短すぎない感じで」という、ふんわり矛盾したリクエストをした。彼女はわかったようなわからないような、自分なりに咀嚼したかのような返事して切り始めた。

「最近、(私)さんみたいに、髪型変えたいっていうお客さんが急に増えたんですよ。どうしてなんですかね?」と、彼女はひとりごとのように疑問を口にした。適当に何か答えたものの、私には検討もつかなかった。前回のパーマが気に入らず、行きつけを変えようか迷っていたことは隠した。



久しぶりに批評を書いた。私の大森靖子『Kintsugi』評は、前半はビギナーズラックでよく書けて、後半は力不足だった。2日目は発表するか迷ったが、他に投稿する記事も無かった。書いている2日間は終始楽しかった。

恐らく大森靖子は、サバイバルの手段としての結婚を肯定している。彼女の主張は一貫していて、「現代社会を自分らしく生き延びるために手段を選ぶな」ということだ。彼女はサバイバルの手段として、売春もパパ活も整形も自撮り加工も肯定する。「KEKKON」で言祝がれていたのは、共闘のための打算的な結婚だった。

過酷な現代社会をサバイブするために、手段を選ばずに生きていくこと。それは現代の超自由主義や貧富の拡大という社会状況に呼応している。大森靖子か過酷な競争社会であるアイドル界隈から絶大な支持を集めているのも、「サバイバルの全面化」という彼女の世界観があるからなのだろう。

そしておそらく、「サバイバルの全面化」の部分に、私は違和感を感じているように思う。それが『Kintsugi』評を書かせたようだ。



正直、私はブレている。

片方には、その世界観の構造的な欠陥が目につく。単純に考えて、売春を肯定すれば買春も肯定されることになる。パパ活だって、貧困女性への立派な「人助け」になる。社会のサバイバルに全面的に参加することは、その社会状況自体の強化に加担することに繋がる。過酷な中でサバイブしていくことは、過酷さの強化を助長することに繋がる。

もう片方には、そう「せざるを得ない」人間たちの顔がある。社会には、逃げるためのカネもなければ場所も知識もない、過酷な状況に置かれた人間が多くいる。大森靖子はそんな状況を直視し続けてきた。辛うじてサバイブしている人から見れば、私の意見などボンボンの綺麗事に過ぎないのだろう。

「私の歌が何人の命を救ってきたと思ってんだ」と大森靖子は言う。その言葉は重い。その重さの前で、私は何を言えるのだろう。

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