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専門家が増えるのは良いことなのか?

よく「手に職をつける」ということを言われる。つまり専門性を持つということだ。いまの社会では、自分専門の分野を持つことは、生計を立てられるようになる。けれどそれは、あるべき社会の姿なのか?今日はそれを考えてみたい。



たとえば衣服について考える。我々は新しい服が必要になった場合には、衣料品店で「買う」ことがほとんどだ。けれど、これは当たり前のことではない。昭和の時代ぐらいまでは、洋服を自ら「作る」文化は残っていた。

衣類の大量生産が可能になるにつれて、人々は洋服を作る能力を失っていった。言い換えれば、洋服作りは「産業化」された。その結果どうなったか?

産業化によって、人々に必要な量を上回る洋服が生産されるようになった。企業間の競争は激化し、1円でもコストの低い製品を、1円でも高く販売することが目指されるようになった。また余った商品は破棄されるようになり、販売される商品の中には当然廃棄コストも含まれるようになった。その結果、服それ自体は、どんどん安っぽいものになっていった。(※)

そして人々は、その貧しくなった選択肢の中からしか、洋服を選べなくなった。凝ったデザインの製品は採算がとれない。ありきたりな服装を組み合わせることしかできなくなる。その結果、パターン化したファッションが街には拡散するようになった。

ここで、人々の側から経過を整理しなおしてみる。人々は洋服を作る能力を失い、代金を稼ぐため労働をしなくてはならなくなった。そして、斬新でオシャレな服を着られなくなっていった。つまり、産業化によって、モノを創造する「能力」も、「モノ自体」も失ったということになる。



何かを専門家に任せるということは、その分野における創造性を失うということだ。そして、そのモノ自体も失うことに繋がる。逆に、何かの専門性で食っていくという行為は、その分野における搾取によって成立している。それは社会の創造性を食い潰す行為でもある。この形式の搾取によって形成されたのが、既得権益まみれのこの国の社会なのだと思う。果たして、そんな社会は健全なのだろうか。


(※)余談だが、古着屋さんで昔のTシャツに触ると、その肉厚さに驚くことがある。いまのTシャツより、昔の製品のほうが丈夫だというのは、共感してもらえるだろう。

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