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あたらしい日記の書き方 2024/04/19

左手の爪が、知らぬ間に反対の手に当たっていたようで、右中指の側面から血が出ていた。血を水で洗い流して、めくれた部分を爪切りで切除すると想像以上に面積が広く、試しに触ってみるととても痛い。急いで絆創膏を巻いたが、治るまで数日はかかりそう。どうも今週は疲れが溜まっていて、それは珍しくしっかり働いたからということもあるのだけれども、とにかく今週は仕事が終わってクタクタだ。

キーボードに文字を入力すると、入力した瞬間に文字が液晶に表示される。何を改まって当たり前のことを言ってるのだと思うかもしれないが、文字になった言葉を目で見ると、ちゃんとした言葉を使わないといけないという意識が芽生え、窮屈さで言葉が出なくなってしまう。

不思議なことに、画面からわざと目をそらしてメチャクチャにタッチタイピングをしていくと、すらすらと言葉が出てきて大変気持ちがいい。最近はそうやって日記を書いている。誤字も構わず、だらしなく涎が垂れるように言葉が流れ出ていくというのは楽ちんだ。

言葉というのは個人に属するものではなく、世界に広くつながれているものなのだとよくわかる。「自分というのは器にすぎない」とはよくスピ系の人がいいそうだが、少なくとも言葉というものに関して言えば、自分という枠から溢れて出てきた言葉には不思議な素直さがあって信頼できる。後から読み返して、形式だけ整えれば一丁上がりなのだ。

先日イベント名のアイデアを提出することがあって、ChatGPTの新しい使い方を試してみた。とりあえず企画概要を説明して、箇条書きで10個ほど案を出させ、感想をだらだらと入力していく。それこそダラダラと「chat」していくように考えるやり方は、脳の機能を外部化しているようでとても風通しがよかった。ChatGPTを上手く育てられれば、煮詰まることも減るだろう。

言語野や思考を外部化して考えていくというのは人間本来のあり方を否定している感じもして抵抗感があるけれども、道具というのは人間のあり方を拡張してくれるもので、それはコンピュータも原始的な道具でも同じことだった。どんどん使いこなして、「人間」という枠だってどんどん壊れてしまえばいい。どうせ大して壊れないのだから。

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