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そろそろと(短編)

長い人生の時間の中で、人間が最も無防備になるときはいつか? それは間違いなく、湯切り前のカップ焼きそばを手に流し台へと歩いている瞬間だ。両手は塞がれ、注意は熱湯の水面へと注がれている。だから、あなたは彼の背中を思い切り蹴るだけでよい。

ところで、あなたはなぜ彼の背中を蹴るのだろう? それは虐げられているからに他ならない。教室で、校舎外で、あなたは屈辱を味わわされている。彼がいなくなれば、あなたの鬱屈した学生生活は幾ばくか改善される。

本当だろうか? それは彼を蹴ることで証明される。彼に一撃を与え、再起不能な状態へと導くことで、あなたの被害は真実となる。その一振りによってあなたは自分自身と決別し、新たな道へと歩み始める。

けれども、彼は存在しない。あなたの絶望には理由がない。あなたは渾身の一蹴りを空振りして、彼の不在を知る。あなたはそこにはいられなくなり、まっすぐな道をそろそろ、そろそろと歩き続ける。空の容器を持ったまま。

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