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とにかく言葉をたくさん並べること
この間、ライター入門のような本を読んでいて、辟易としてしまった。ベストセラー企画で執筆を担当したというその入門の筆者は、「自分に厳しく、言葉のひとつひとつにこだわって、命を削って文章を書け」みたいなことを言っていて、バカげているなぁと思わずにいられなかった。実際その本はひどく退屈だった。
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文章は量でできている。量は空虚でできている。ブランショを僕なりに捉えればそうなる。
— 千葉雅也『現代思想入門』発売 (@masayachiba) August 23, 2022
昨日タイムラインで見た、千葉雅也さんのツイートだ。「ブランジョ」を知らない私は、この言葉の正確な手応えを掴むことはできない。けれどおよそ、「文章とは言葉を空虚に、たくさん並べたものですよ」と意訳できる。つまり、「執筆とは、虚しくても、とにかく言葉をたくさん並べることですよ」とも読める。このツイートは執筆論であり、創作論を語っている。
手を動かすこと。冗長でもいいから言葉を量産すること。とにかく量を稼ぐこと。研ぎ澄まされた言葉みたいな幻想はとっとと捨てるべきだ。
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と、ここまで書いていて、水道橋博士が著書の中で、「質は量に比例する」ということを書いていたのを思い出した。たしか、『ごっつええ感じ』期の松本人志に言及したときの言葉だったはずだ。奇跡のようなクオリティのコント群がなぜ毎週生み出せたのか。水道橋博士はその理由を「量」に見出していた。
世間一般には「天才=寡作」というイメージがあるが、実際は「天才=多作」のことも多い。それは「天才"こそ"多作」ということなのかもしれないし、「多作が天才の条件」なのかもしれない。
「量」を追求すると、ひとつひとつの作品への「こだわり」は減る。それぞれの作品への「こだわり」は減少するが、その結果、作者の自覚できる範囲を超えたクセや個性のようなものが作品に滲むようになる。このクセや個性のようなものこそ、「天才さ」と呼ばれるものだ。
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今日はすこぶる話がとっ散らかっていますが、とにかく、「とにかくたくさん書いて、ザブザブ投稿しましょう!」というのが結論です。「第一に量を求める」というテーマで書き始めたら、まとまりのない冗長な投稿になりました。まあ、こういう日もあります。
今日の話は、いつか推敲するかもしれないし、同じテーマで別に書くかもしれないです。では、また明日!!!!!