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絵画と"絵画以外"(エッセイ)

スプラトゥーン3というゲームが流行っているらしく、広告をよく見かける。どうやら、3D空間でインクを噴射して陣地を取り合うゲームらしい。インクを撒き散らし合う広告映像を見れば、ポロックのアクションペインティングを想起せずにはいられない。「スプラトゥーンは絵画なのか?」という論考があってもおかしくはない。



先日竹橋で見たリヒター展で、複数の方法で問われていたのは、絵画の成立条件についてだった。それは、「どうすれば絵画は成立するのか?」という問いである。リヒターはその検証のために、写真やプロジェクター、ナイフや木板といった筆以外の道具を創作に導入した。絵画というものの定義に、揺さぶりをかけたわけだ。

「どうすれば絵画は成立するのか?」は、「絵画と"絵画以外"を分ける境界は何か?」という議論でもある。それは、この世界には"絵画以外"が存在するということだ。むしろ、無限に存在する"絵画以外"の中に、例外的に"絵画"が存在していると表現したほうが正しい。その状況は、とても不思議なもののように感じる。



あなたにとって〇〇とは?、というのはドキュメンタリーの常套句だけれど、本当はもっと各人が「人間とは?」という問いを秘めて生きなければならないように思う。それは、動物・コンピュータ・言葉・資本といったの「人間以外」との比較されに行くということでもある。私たちは人間についてほとんど何も知らないし、そしてそれ以上に、「人間以外」について知らなすぎている。

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