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わからないものの為に(エッセイ)

今日はこれから群馬に行く予定だ。お盆の帰省が延びたので3連休で実家に帰ろうと連絡したところ、ちょうど今日は両親が群馬に行く予定があるとのことで、便乗させてもらうことになったのだ。母方の祖父の家が桐生にあり、生前は毎年訪れていたが、中三で亡くなってからめっきり行かなくなっていた。

実家の千葉から桐生へは車で向かうため、錦糸町駅で拾ってもらう計画になった。そして私は今、待ち合わせに遅刻している。昨年家族で金沢に旅行したときも、30分ほど遅刻して大慌てになった。なぜ遅刻してしまうのかといえば、家族に会うことに抵抗があるからだった。



昨夜は録り溜めていた「鎌倉殿の13人」を観た。畠山の乱の前夜を描いた回だった。武蔵の領土を巡り、北条家と畠山家が対立するようになり、その対立を朝廷が掻き回したため、両家の緊張が高まるというあらすじだった。主人公の小栗旬扮する北条義時は戦乱を避けるために奔走していたが、父親の時政の翻意によって交戦は避けられないような情勢になりつつあるところで、その回は終わった。

ラスト、義時と畠山重忠が盃を酌み交わす。鎌倉のために戦乱は避けたいと言う義時に、鎌倉のために戦うのであれば討つべきは時政だと意見する。

「鎌倉」はいまの日本社会の風刺のようだった。大局的な制度が維持されるために、小さな悪が揉み消される。「国の為」という理屈で、悪事や既得権益が野放しにされる。ところで、その「国」とは何を指すのか?それを解る者は誰もいない。

それはウチの家族にも言える。家族とは何か誰も解らないまま、それぞれの役を演じる。今日は一日中「物分かりのよい次男」を演じるのだろう。「家族」が何かわからないまま、私たちは家族を作る。遅刻した私を乗せた電車が、錦糸町に着いた。

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