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国葬の日(エッセイ)

職場は飯田橋と九段下の中間にある。昨日は国葬で、働いていたら騒音がした。ヘリコプターのプロペラ音が何回も聞こえた。警察の拡声器の怒号も多かった。九段下の方面からは「国葬!」「反対!」という合唱が聞こえた。中心核の誰かが「国葬!」と音頭を取ると、周縁の者達が「反対!」と応える仕組みのようだった。ここ数ヶ月でにわかに立ち上がった"国葬反対派"の中にも立場の上下があるというのは、複雑な気持ちだった。

目の前の幹線道路には路線バスを塗装し直したような警察車両が並んでいて、天井には「神奈川」「埼玉」という黒ガムテープで貼ったような文字が書かれていた。私たちはしきりに窓の下を眺めてはニヤニヤとした。同僚は「神奈川」の車両をしきりに写メしていた。

家に帰ってYouTubeで、菅さんの弔辞を見た。序盤「あなたと同じ空気を吸いたい」「いつのまにか蝉の声がしなくなった」と、幼稚な文学青年の独白のような言葉が並んで恥ずかしくなった。思い出話は実話なのだろうが、安倍さん(と一応呼ぶが)の政治実績を正当化しようとする意図が透けて見えた。あなたの判断は常に正しくあり続けたなんて、「よう言えんわ」と思った。

メディアの論調も実施前より緩やかだった。数百億といわれる費用も生前の汚職も忘れて、「やってよかった」という思い出になりそうな気がする。日本社会は、なんでもすぐに忘れる。未来の私は、今日の日記をいつか読み返して、忘れないでいてくれるだろうか?




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