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自決の件(エッセイ)

時事のネタに乗ったり斬ったりしたいわけではないのだけれど、某成田氏の集団自決の話に妙に引っかかっている。言いたいことがまとまっているわけではないのだけれど、とりあえず書き始めてみる。

話を簡単に整理すると、某氏が少子高齢化を食い止めるためには老人が集団自決をするシステムを作るしか解決策は無いという発言をした。それがニューヨークタイムズに取り上げられ、炎上騒動に発展した。SNSを中心に賛否両論の意見が発信されて、騒動になっている状態だ。

まず思うのは、老人が集団自決をするという手段では問題が解決したことにならない、ということだ。それは、死ねば病気が治る、という理屈と同じで、少子高齢化問題という問題設定の前提が守られていない。言っていることが元も子もない。

次に感じるのは、反対意見に登場する「尊厳」という言葉の空虚さだ。「亡くなって悲しむ気持ちがないのか」という批判は、裏返せば悲しまれない命は亡くなってよいという差別になる。そこには人命に対する傲慢さがあるように思う。

現代においては、もう人間関係ですら「資産」であって、社会的な貧者は孤立せざるを得ない状況だ。尊敬できる高齢者が周りにいないという環境も、決しておかしいものではない。「亡くなって悲しむ気持ちがないのか」という批判すら、ブルジョア的なものに感じられる。

そして将来、老人は人権を侵されないギリギリのラインで、社会から排除されていくのだろうと思う。フーコーの規律権力の議論を想定すれば、そう想像するのは容易い。高齢者は社会的にフェードアウトさせられ、無力のまま死なされていく仕組みになるのだろう。

集団自決のような極端な意見が流通するのは、それを待望している社会的土壌があってこそだ。社会全体に漂う無力感が、行き場を求めて彷徨っているのだろう。賛否それぞれが表層的な議論に終始している状況こそ、真に絶望的なのだろう。だからこそ、未来を作っていかなければならないのだ。

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