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お茶碗(エッセイ)

昨夜、エアロバイクを漕ぎながら日曜美術館を観ていた。奈良県の山奥に住む陶芸家の特集で、仙人のような暮らしをしながら制作する様子に密着されていた。頭の中に確固たる理想の茶碗があって、それを目指して何千という茶碗を焼いているそうだ。

映像を眺めながら、文章という形式はなんとラクなんだとろう思った。シュッとスマホを取り出して、バーっと書いて、ちゃちゃっと手直しすれば完成だ。シュッ・バーッ・チャチャッ。流れるように書き上がる。

対して陶芸は手間がかかる。土を選んで粘土をこねてろくろを回して薬剤を付けて窯まで運んで火加減を調整して云々。作品の出来を左右する変数が多いし、途中で手直しもできない。なにより、待ち時間が発生する。

ところで、私の彼女は版画家だ。ときおり制作の話を訊くと、版画も制作プロセスがたくさんあるようだ。下書きをして版を作って色をのせては紙に定着させて云々。どの薬剤がなんたらで、版が乾くまでどうたらこうたら。手間がかかるというか、面倒くさそうというか。それでいて、待ち時間が発生する。

そう、私はせっかちだ。きっと工数の多い技法は合わないのだ。けれど、そう思う反面、長い時間かけて作品を練り上げるとしたら自分が何を作るのか、知りたい気持ちもある。陶芸だったら?版画だったら?複雑な工程は気の迷いを削ぎ落としていく。過程それ自体が禅のようだ。彼女の耳裏からは畳の匂いがする。

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