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「あなたのルーツはどこにありますか?」(エッセイ)

料理を作りながら聞いていたYouTubeで、宮台真司さんが「海外では、ルーツを語れない奴はクズ扱いされる」という話をしていた。これは先日スペインに行ったときにも感じたのだけれど、性格というのは生まれ育った社会や環境に大きく影響される。自分が育ってきた環境や世界について自覚的に説明できるということは、異文化の社会で信頼を得るためには重要なことなのだそうだ。それにしても、私はいままで「ルーツ」というものを一度も意識したことが無かった。



父のルーツは関西にある。父は兵庫出身の1959年生まれで、新人類世代にあたる。大学で群馬に越したあと、転勤で千葉に移住してきて今に至る。父の母(私の祖母)も、父を頼りに越してきて、千葉で暮らしている。母方の家系は群馬にあるが、母方の祖父母は共に亡くなっており、いまは群馬には誰も住んでいない。

私の父はずっとサラリーマンで勤め上げ、数年前に資格を取って独立した。母は元教師で、今はパートで塾講師をしている。母方の祖父は染物の職人だったと聞いているが、父方の祖父は、私が生まれる前に亡くなっていたので何も知らない。

私は千葉出身ではあるものの、ルーツが千葉にあるという感覚があまりない。群馬の実家には数年に一度帰るけれど、関西の実家には行ったこともない。むしろ、自分の感覚としては、ルーツを持たないという「根無し草」的な感覚のほうが強かった。



個人的には、私のルーツは00年代のお笑いとバンドカルチャーにあるように思う。私の青年期は、YouTubeで違法に上がったバラエティの動画を見漁り、通学時間にはiPodでロックンロールを聴き続ける日々だった。根無し草的なアイデンティティの欠如を、ジャンクな漫才動画とレンタルCD文化で補って、そうして出来上がったのが私なのだと認識している。

(余談だが、こういったサブカル男子/女子的な感性は、世代的に共有できるものではないだろうか。1993年生まれの私の周りにも、そういう人間は多い気がする。)



自分のルーツを客観的に把握して説明できるというのは、社会的な信頼という側面だけでなく、自己のアイデンティティを確立する上でも重要なことなのだろう。どういう環境で育ち、どういう性質になったのかを把握すること。それは、自分を「許してあげる」ということでもある。

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