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ジブリ『風立ちぬ』ラブ

宮崎監督の最高傑作は、マンガ『風のナウシカ』です。生命の秘密に迫り、マトリックスの実存を描いている点で、驚異的です。

映画はと言うと、ドラマ『もののけ姫』、圧巻『千と千尋の神隠し』、初期作品も魅力的で、個人的には『となりのトトロ』を挙げます。

近作だと『ハウル』はナウシカ的な物語を完成させています。そのため夜空に染まるソフィーの髪はショートです。

『ポニョ』は、世界の終わりで愛を叫ぶ。

『風立ちぬ』は、実写を超えたリアルに挑戦しています。アート的で、後期宮崎3部作のエンドに相応しい内容です。(下図まとめ)

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以下、タイトルに合わせて難易度で解説しています。ネタバレ。

初級:風立ちぬは『火垂るの墓』

火垂るの墓は、兄妹が戦時の不条理によって命を落としてしまう悲劇です。

二人は、成仏する事なく現世を永遠にさまようエンディングです。

宮崎監督はこの終わり方が、気にいらなかったように思われます。師匠、高畑監督との意見の違いは度々おこります。

当初の『風立ちぬ』は、菜穂子の「きて」というセリフで心中する終わり方を想定していましたが、紆余曲折あって「いきて」に変更されています。

この心中は、結核の感染によります。作中では、3度のキスシーンが描かれますので、二郎はうつっています。

ですから、飛行機完成に向けた二人の営みは、リスキーなものですが、作品のテーマ性はディスタンスをキッパリと否定します。

そうしなければ生きられなかったのです。

堀辰雄の風立ちぬでは、主人公が絶望エンドになっている事と対比します。

中級:加代かよ!

宮崎作品は、ダブルヒロイン制がとられることが多いです。

ナウシカ、クシャナ。もののけ、エボシ。

『風立ちぬ』では、菜穂子と加代です。

キャリアウーマン的な自己実現を行うのが医師としての加代です。ちなみに、少年期の二郎がケガをして、加代が赤チン消毒をするのは伏線です。

一方、菜穂子は病気の為、深い悲しみを、飛行機の完成に託します。

これが、宮崎映画の典型的な構図で、二人が出会い困難を共有し、ラストに賭けるがほぼ全て。今作では大人っぽく仕上げています。

ハウルでは、わかりやすい関係性をわかりにくく、ポニョでは意味深な関係性をファンタジーとして描きます。この2作品のラストはキスです。

加代は、菜穂子とシンクロするような存在です。

作中、二人が会話するシーンが無いことに注目します。このヒロイン達は、積極的な二郎との関わりによって、自らの夢を実現させます。飛行機です。

ラスト大粒の涙は、千尋のおにぎりシーンを連想します。ここでも菜穂子とすれ違っています。

結論、加代はヒロインで、菜穂子と光と影の存在です。そして、キャラクターの自我、境界があいまいなものとなっています。(これは次の上級編のテーマです)

涙は、「菜穂子との別れ=二郎とも別れ」としてラストに向けられているはずです。

映画では、二郎生存ルートに変更されています。解釈の余地はあります。ですが、悲劇を肯定するハッピーエンドだと思います。

上級:ロマン主義

作品のモチーフを検討します。

宮崎監督は『千と千尋の神隠し』でアニメーション表現の限界を突き詰めました。一方で、西洋絵画を超えるようなアート表現について限界を感じていたようです。

イラストを担当した『ブラッカムの爆撃機』の取材中、イギリスの美術館での体験で絶望します。西洋絵画には、かなわないという事です。

ですから後期3部作では、原点回帰をした後に、風立ちぬでは西洋絵画引用する形で乗り越える戦略を採っています。

その中でも、ミレー作『オフィーリア』という作品が重要です。オフィーリアは、シェークスピアのハムレットの登場人物で戦渦に病み、非業の死を遂げてしまいます。

この絵画では、憂いとアルカイックなほほえみをたたえる、究極的な美として描いています。

映画では、菜穂子のおまじないのシーン、軽井沢の湧き水での会話場面です。おもわず「いきているって素敵ですね。」と呟いてしまいます。

ちなみに作中で二郎が朗読する詩、「誰が風をみたでしょう」は、クリスティーナ・ロセッティ作です。

ロセッティの兄は、ラファエル前派の中心人物(ミレーもその一員です)。彼の妻が夭逝する、オフィーリアのモデルになったエリザベス・ジダルです。

モデルとして、病をおして、冷たい水に浮かぶ。

このように『風立ちぬ』は、西洋絵画を多くモチーフしているので、観る人はこれらの解釈を行う必要があります。

まとめると、映画の総合芸術としての底力を、西洋アートを飲み込むことによって表現しています。

そして非現実=夢の世界を描き、現実ではありえない表現方法を用いています。キャラクターは自我よりも、作品を飛翔させる絵画の登場人物のようになります。

そのアート表現によって、菜穂子と加代、二郎とカプローニとカストルプは、同一人物であるかのような錯覚を覚えます。

さらに、宮崎監督が何を考えているかという事を、ジブリの歴史を振り返りながら吟味する必要が生じてきます。

このやり過ぎ、過剰感が『風立ちぬ』を難しくしているのではないでしょうか。

おしまい

この他、作品のモチーフは多岐にわたります。

ドイツ飛行機とゲルニカ。サバの骨は、魚の群としての飛行機。鉄道は、千と千尋とは異なる描き方をしています。(生の方向性)

「風」は『方丈記』災害の大風からきています。これを、飛行機に昇華する上昇と対比して描いています。

「ケムリ」は幻想的なイメージとして作中で反復されます。(正確にはシュールレアリスム表現)

完璧な映画はどこか欠けている用に思えてしまいますが、実写を超えて宮崎監督が本気を出すとこうなるという驚きに満ちあふれている作品です。

まだ、風吹いてます。新作へ。

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