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久しぶりの日曜休み、に思ったこと

数ヶ月ぶりの日曜休み。有給消化の為の、希望もしていない休日。
朝8時に人形町のカフェに向かう。
いつも平日に出掛けるから、休日の電車はこんなにも幸せそうな人たちで溢れているのかと不思議に思い、でも自分はひとりで、少し切なくなった。朝から気ままに出かけるのは久しぶりだった。
席に座った目線の先で、丁寧に淹れられるコーヒー。誰かが淹れてくれたコーヒーを飲むのが、こんなに幸せだっただろうか、となぜだか泣きそうになった。ラピュタパンが美味しいらしいお店でそれを食べ、9時には満席になった店内で周りのお客さんの様子を観察して楽しんだ。自分のフレンチトーストを、アイスクリームをたっぷり添えて分けてあげる姿に微笑ましくなったり、「店内での待ち合わせはご遠慮ください」と書かれているのに、20分以上注文をせず座っているその人に、関係ないけどむっとしたり、川上未映子さんの小説を読んで涙が出そうになるのをこらえたりしながらのんびり過ごした。

秋の風の冷たさが、懐かしい、けどどうしても切ない。
この感情をなんとなくでも理解してくれる人がいるだろうか。いつかどこかで感じた空気に似ている、それを思い出して切なくなる。
考えてみた結果、小学校の運動会の日の、朝の空気に似ていると思った。親の観覧席を取りに、いつも以上に早起きして小学校に向かう。席を取り家に帰って、運動会用の(お弁当の余りの)いつもとちょっと違う朝ごはんを食べる。その日のために親が新調してくれた真っ白な体操着で登校する。朝の席取りとご飯は一緒なのに、本番の観覧席には両親がいないことが多かった。両親とも小学校教師で、私の運動会の日は、いつも職場でも運動会だった。祖父母がいる手前顔には出せなかったけど、本当は少し寂しかったような記憶がある。「親が学校の先生で、平日も帰りが遅くて、土日も働いていて、寂しいと思ったことはある?」と母親に聞かれて「別にない」と答えたことがあったけれど、心のどこかでは寂しかったのだろうと今は思う。



昼過ぎに高校からの友人2人と日暮里で合流。集まるのは3年ぶりだった。久しぶりなのに、高校時代毎日会っていた時とほとんど変わらない安心感、楽しさ。彼にその日のことを話したら、帰り際までずっと楽しいなんて珍しいですね、と笑われた。いつも誰かと会うと、会話の中のちょっとした一言や、相手の表情や、それに気を遣う自分に、気づいたら疲れ果てている。一日誰かと出かけると、帰り際はどちらとも疲れていて、笑顔が減り、会話も減る。終わり良ければ全て良しの反対、ではないけれど、終わり悪ければ全て悪しという感じで、一日の最後に気まずさがあると、自分の中で悪い思い出になってしまう。帰りの電車は無言で相手への気遣いの余裕なんか無くなっているのに、ディズニー楽しかった!最高の思い出!なんて思えない。
それが怖くて、他人とのアクティブな旅行を避け、大人数での集まりを避け、できるだけひとりで過ごしている。
でも今回は、楽しかった。他人と過ごす時間を100%楽しいと思えない私は何かがおかしいのではないかと、自分を受け入れつつも不安だったから、楽しめた自分が素直に嬉しかった。

マッチングアプリで出会った相手と別れた、という話から始まり「好きってどういう気持ち?どういうことを言うの?」「相手を信頼するってなに?どうやったら信頼できる、と判断できるんだろう」とか、そんな終わりのない他愛もない話をして笑いながら、この人たちが、あまり傷つくことなく幸せでいてほしいなと思った。

その日は来られなかったもう1人を誘い、日程を合わせて11月にまた集まることになった。
親友、という言葉は使いたくないけれど、本当に親しい友達、また会えるのが楽しみ。

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