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エッセイに弱い

川上未映子さんの「きみは赤ちゃん」を読んだ。
エッセイに弱い。というかエッセイが強すぎる。結婚も出産も未経験なのに、これから自分に起こるかもしれないということ、それを一緒に経験する相手が今の彼であることを想像して、涙が出てくる、というのを、最近よくやってしまう。

結婚、出産、仕事、育児、夫婦関係、両立、女、男、
そのいろいろを考えると、どうしても自分にはできる気がしない。諦めと、でもどうにかやってのけたいという気持ちも確かにあって、数年後を想像して心が重くなる。結婚する、妊娠する、そもそも自分と相手が(もちろん家族なども)健康か、とか出産以前の問題が山ほどあるし。


「「きみよ、安心して生まれてこい。わたしが受け止める」ってことが、赤ちゃんをこの世界に無相談で参加させるこちら側の最初にして最大の誠意というか覚悟というか、唯一の態度であるような、そんなような気がしてならなかった。」

「ある人がそう生きたい、と思うことに、思ったその時点で、どうして他人がそのことに口を出すことができるだろう。
動機と結果のこのふたつは混同されがちなんだけど、はっきり、べつのものだと思う。」

「「生んでもらった」「生んでくれた」「生んであげた」みたいな応酬というか定形みたいなものを、もうそろそろやめたほうがいいんじゃないのかな」

「できるだけけんかをしないこと。日々を楽しく過ごすこと。たくさん話して、おたがいが考えていることを、できるだけ伝えること。相手のすべてをあたりまえと思わずに、努力しなければならないことがやまほどあるような、そんな気がした。」

「たいへんな日々に飛びこむまえに、「ふたりでもっとちゃんと作りあげなければならなかったものがあるんじゃないか」と思うとものすごく不安になって、そうかと思えば、「いや、そんなのは意味がなくて、人生はお手本なしの応用のみよ」というつよい気持ちにもなったり、」

「なにかが苦しかったり、悲しかったり不安だったりするとき。なにが、なぜ、どのように苦しかったり悲しかったり不安だったりするのかを、言葉にしてみることって大事なんだなとあらためて思う。そうすることで、気づくことがたくさんある。」

「自分の体験や実感をこえて、世間一般の「男性性」にたいする嫌悪がみるみるふくらんで、それがあべちゃんという個人に逆輸入されるようなあんばいだった。」

「自分の味わっている痛みやしんどさを、この世界の誰ひとり、おなじようにわかってくれる人などいないという、考えてみれば当然すぎる孤独だった。」

「人生は変数×変数。「こうしたから、こうなる」ということはまずないのであって、つまり、現在の選択が将来にどのような影響を及ぼすのかについてこまかく心配していてもきっとしょうがないのである。」

「なんでも考えすぎず、自分の偏った想像力を信用しすぎず、ときには流れにまかせて選択するということが、思いがけない結果をくれることを、はじめて知ったような気がする。」


私はどちらかというと、というか完全に「偏った想像力」に頼りすぎる&支配される性格で、彼のほうは圧倒的に自然に任せてその成り行きをそのまま受け入れるのが得意だ。

きっとそういう性格にこれから何度も助けられるだろうし、反対に呆れもイライラもするのだと思う。でも私が感情をぶつける度に、それすらもそのまま受け入れて、「そういう考えもあるんだなあ」とか「ひとにはそういう時もあるよな」とか心の中で片付けて、私と上手く関わってくれるんだろうな。と思うと、彼のことが大切で大事すぎて、涙が出てくる。そして本を読んだこの一連の気持ちの流れを話したら、めんどくさがらずにうんうんと聞いて笑ってくれるんだよなあ、と思うとまた涙が出そうになる。

本を読んで思ったことを紙に書いたり今noteに書いたりしていると、仕事とか、なんでもいいや、それより今感情がぐるぐるしている時間を大切にしたい、という気持ちになる。

それでも仕事の時間は近づいてくる。
三連休最終日、頑張ろう!

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