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日本古来の男女観

日本古来の男女観をいまこそ思いだしてはどうかと、最近とみに思います。配信016『男と女の陰陽論』017『陰陽和合の精神-日本人古来の男女観-』でもそのことについてお話しましたが、ざっくりまとめておきます。

日本は男尊女卑だといわれます。女性の社会進出が遅れているので、数値的にそのような結果になるようです。例えば女性の国会議員の割合が低いとか、会社で女性の管理職が少ないといったことです。それはそれで問題がないというつもりはありません。が、日本文化の基底にある思想は、決して男尊女卑ではありません。

陰陽理論が教える男女観

日本に陰陽哲学が入ってきたのは仏教より前のようです。陰陽哲学は歴史を通じて、日本人の思想に多大な影響を与えてきました。

この思想から導きだされる男女観は、男=陽、女=陰となります。陽と陰は、対立的でありますが、分け隔てることができません。一体であり、いずれか一方が独立して存在することはできません。また対等であり、上下関係もしくは従属関係でもない。古来日本人の男女観はそのようなものだったでしょう。 

一方、西洋人の認識はまったく違います。この図をご覧ください。

英語の「男・人」と「女」の関係

英語の男と女の関係性は、このように表されます。man のなかにwomanが含まれます。Woman = womb + man (子宮+人)ということで、man は人を意味すると同時に、男をも表します。manが「人」と「男」両方の意味を兼ねるので、男と女はどう頑張っても対等になりません。

この変な認識の源は、アダムとイブの説話にも反映されています。旧約聖書の人類創世記では、神が人を造ったとあり、それがアダムです。その後、アダムの伴侶としてかれの肋骨から女を造りました。英語のman とwomanの関係は、まさにこの通りであって、先に造られた男が人であり、女は後から造られました。フェミニズムが興るのも、むべなるかな、です。

ジェンダー平等は幻想

こうしたいびつな西洋の男女観から、昨今ジェンダー思想が日本人に襲いかかっています。ジェンダーとは、社会的に規定された性別と定義されます。生物学的性差を認めつつも、そこから生じる男性的性質や女性的性質といった「らしさ」を否定し、平等という名の下にそれを亡きものにしようとするものです。

元々いびつな男女観の西洋人が、「平等」を焦って編みだしたとしか思えないジェンダーなる観念。陰陽理論の男女観をもつ日本人からすると、ジェンダー平等など荒唐無稽に思えます。陰と陽はそれぞれ極であり、その極性は互いに反対の性質として男女それぞれの「らしさ」に表れます。その「らしさ」を亡きものにしても、平等にはなりません。

男女観の極性は極めて大事です。この極性あるがゆえに互いに引き合うことができるからです。もしもジェンダー平等を推し進めたならば、男と女の極性が低下し互いに引き合う力が弱くなっていくでしょう。そのとき、はたして男と女は仲良くできるのか。

性別という条件は、互いに反対である性質をもちつつ調和することを人に課しているように思います。喧嘩し、争い、対立するのではなくて。これをむかしの日本人は、陰陽和合といいました。

陰陽論を忘れた日本人は、ジェンダー思想を無批判に受け入れてしまいがちです。が、西洋の思想や風習を学ぶのはそれとして、伝統的な男女観も大切にすべき価値観ではないでしょうか。いま一度本質に立ち返って考えることを、ぜひ…。


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