定期的な自己表現の場を持つことの大切さ
フィギュアスケートを見るのが好き。多分ジャンプを見るのが好き。人間ってすごい!て思う。見てて綺麗。ただ「ジャンプしてるのがすごい!」と思うレベルなので、競技的な点数とか、映像を見ていてもジャンプの種類は分からない。フィギュアスケートは素晴らしいのだが、私がいかに適当に楽しんで見ているのか、はまた別の機会にnoteに書こう。
フィギュアスケートに限らず、スポーツ全般、または人前で発表するような演劇などは、新型コロナウイルス拡大のために、例年通りのスケジュールが難しくなってしまった。競技会、発表の場がなくなることで、選手、演者のモチベーションをどのようにコントロールしていくのか、が問題になっていた。
これは、アスリートなどの多くの人に知られているようなある程度有名な人たちの問題だけではなくて、実は身近にあるんだ、と実感している。
実は学生は1年のなかでも区切りが多い。まず定期試験がある。すべての学生が定期試験に向けて毎回前向きに頑張ろう、とは思わないだろうが、その定期試験のタイミングを目処に遊びに行く計画をたてる、個人的なイベントを設定することは少なくないと思う。定期試験以外にも、体育祭(運動会)、文化祭、部活に入っていれば、それに関する大会など、とにかく「学生である」というだけでイベントがある。そもそも入学したら、卒業(または退学)の期間イベントがセットなのである。
学生を卒業しても生きていればそれだけで期間イベントが多く発生する。(学生以外はめんどくさくなってきたので割愛)
世界的にパニックを起こすような事件によって、それらのイベントのうち、かなりの割合が予定通りに進まず、あるいは消滅するということがおこる。競技会などの大会を目標にしてきた人は、「それまでの期間にやってきたことはなんだったんだろう」と感情や思考の行き場を失う。noteに冒頭で書いたとおり、モチベーションを失うのだ。
ただ、このような目に見える確実なイベントだけではない。試験が終わったら、この仕事が終わったら遊びに行こうと約束していた友達との予定はなくなってしまうかもしれないし、強行したとしても前からの楽しみな気持ちだけではなく別の感情も入ってくるかもしれない。
期間の明確な終わりのあるイベントが無くなってしまったり、あるいは、それが先延ばしになることで、どこまで自分のペースを保てばいいのか分からなくなってしまうのだと思う。
はじめから「このモチベーションは生まれてから死ぬまで保ち続けなければなりません」と分かっていたら、まだ気持ちはましなのかもしれない。ズルいけれども、どこで手を抜けばいいか、はじめから考えられる余裕ができるし、はじめに言われると、諦めもつきやすい…かもしれない。
とりあえず区切りのある日程で何かをだす、という場を持つというのがいかに大切か、身をもって知った。
とりあえず、今の私の区切りはこの12月である。
年末進行がんばりましょう。