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ダーティハリーを見ました

わるいインターネットで話題になっていた映画です。

ちょっと調べたら、Wikipediaに載ってるあらすじがかなり面白そうで早速見てみました。

全部引用すると長いので、「見るぞ!」となったところだけ抜粋します。

スコルピオは落とした拳銃に一度手を伸ばすも躊躇する。それに対し挑発するハリー。結局、スコルピオは拳銃を取りハリーを狙うも、一瞬早く銃口を向けたハリーに胴体を撃ち抜かれ絶命、死体は池に落ちる。しかし警察の人間としての誇りを失ったハリーはポケットから警察バッジを取り出すと、池に放り投げるのだった。

つまり、「狡噛慎也の原型じゃん!」ということで、サイコパスのSF部分が好きな自分としては見ないわけには行きませんでした。


ハードルを上げて見てしまうと確かにつらい

「クリント・イーストウッドの出世作にして、ハリウッドアクション映画を牽引して第5作まで作られた名作」のような触れ込みでハードルを上げて見ると結構しんどいです。画面の動き自体はわりとのんびりしていますし、地味な捜査をしている場面も多くあります。

アクション映画としてはのんびりした画面に見えるのは主人公のキャラハン刑事が使う銃が一つの要因です。.44マグナム弾という大口径の弾を使う大型拳銃を主に使用するため、一発一発がとても重く、派手にばらまくようなことが出来ません。見た目はどうしても地味になります。この「一発一発が重い」という枷は、逆に一発一発を数えることができるということで、シリーズを通じて弾数のつじつまが合うように脚本が組まれています。スコルピオが「今日はツイてなかった」ことをキャラハン刑事は知っていたわけですね。かっこいい演出だとは思いますが、とても地味です

この地味さはある程度は狙ったものだと思っています。ダーティハリーが描きたいもののためには、キャラハン刑事はド派手なカッコいい主人公であってはならなかったのです。

顧みられないものへ光を当てる

作中でキャラハン刑事と組むことになる新人刑事のチコは「なぜ皆はあなたのことを『ダーティハリー』と呼ぶのですか」と疑問を投げかけています。この答えは非常に明確に提示されます。「誰もやりたがらない汚れ仕事を引き受ける」からです。誰もやりたがらない汚れ仕事がド派手にカッコよく解決できるはずがありません(もしそうなら、誰かがやりたがるでしょう)。地味で大変で、誰もが目を背け、顧みない、しかし誰かがやらなければならないことを引き受けるヒーローがキャラハン刑事です。

キャラハン刑事を演じたクリント・イーストウッドは当時の時代背景についてインタビューで答えています。

クリント・イーストウッドは「70年代は犯罪被害者の立場が顧みられない時代だったため、キャラハン刑事の行動は物議を醸した」とインタビューで述懐している。「当時のマスコミは被疑者の人権を声高に擁護していたんだ。でも同時に、社会的な不安も高まっていて、被疑者の権利ばかり擁護する報道姿勢に対して疑問視する声も生まれていたんだよ。“もっと犠牲者のことを考えよう”とね」。

当時は1966年のミランダ警告の象徴に、警察権力の横暴から被疑者を守ろうという機運が高まった時代でした。「国家権力の暴走から国民を守る」という理想には多く人が賛同したことでしょう。それと同時に本当にそれで社会の安全は守れるのだろうかという不安もあったはずです。ダーティハリーの刑事ドラマとしての核心部ではこの葛藤が描かれます。

キャラハン刑事の目的

一般的に刑事ドラマの刑事の目的は犯人の逮捕であり、刑事ドラマは刑事と犯人の対決が主たるテーマだと考えられています。発端の北村紗衣さんもそのような見方をし、「ゾディアックに比べて愚かなスコルピオと、無能な警察官のハリーによる、ポンコツ頂上対決映画」とまとめています。

しかし、映画を見てみると、キャラハン刑事にとってスコルピオを逮捕することは「最重要の目的」と言うわけではありません。キャラハン刑事がスコルピオを追い詰めた場面を思い出してみましょう。キャラハン刑事はスコルピオへ、要約すると「殺しはしないから人質の場所を教えろ」と尋問しています。そう、キャラハン刑事にとって一番重要なのは「被害者の人権」です。キャラハン刑事が刺し傷と銃創の上を踏みつける拷問に至ったのは、手段を選ばない捜査という解釈も可能でしょうが、被害者の人権を踏みにじった上に、救済することができる唯一の存在であるにもかかわらず「僕には権利がある!」と連呼し続けるだけの存在を許せなかったのではないかと私は思っています。

キャラハン刑事の焦点がスコルピオではなく被害者に当たっているのは、クリント・イーストウッドのインタビューでも裏付けされています。しかし、北村紗衣さんの感想には「被害者」という視点はほとんど出てきません。メインテーマが共有できていなかったら映画がつまらないのも当然でしょう。悲しい事故です。

被害者の人権の擁護者

キャラハン刑事が目指すのが「被害者の人権の擁護」だという補助線を引くと、理屈で考えると不可解なキャラハン刑事の行動も解れてきます。

なぜミランダ警告をしなかったのか。人質の命のリミットが迫る中で無駄話に使える時間は1秒たりとも存在しないからです。

なぜ検事に法律を楯にスコルピオの釈放を主張されてあっさりと引き下がったのか。不毛な議論を続けるよりも、釈放されたスコルピオの次の犯罪を阻止することが重要だからです。

なぜスコルピオを射殺した後に警察のバッジを池に投げ捨てたのか。目の前の被害者を救えないとしても、法に基づく秩序が多くの被害者の人権を守って来たことに敬意を持ち、私刑に至った自分にその擁護者である資格はないと知っているからです。

キャラハン刑事がファシストなのかリバタリアンなのかといった議論は、観察者の価値観の中からそれらしいラベルを選んだだけで、キャラハン刑事の本質には辿り着けません。ファシズムだろうとリバタリアニズムだろうと、それで目の前の被害者を救うことができるのならキャラハン刑事はそれを採用します。たとえそれが法による秩序に反する暴力であっても、必要だと確信すれば躊躇うことはありません。それが「ダーティハリー(汚れ屋ハリー)」なのです。

揺らぎがある被害者

このようにキャラハン刑事を「被害者の擁護者」として描く一方で、絶対的に正しい存在であるかは疑義が呈されます

まず分かりやすいのは、チコと共にスーツケースの男を追っている場面です。二人はスコルピオだとにらんだスーツケースの男が入って行ったアパートの一室を張り込むわけですが、その途中でキャラハン刑事は覗きを行っていると勘違いされ、有志の市民たちによって暴力を伴う制圧を受けます。ここで市民たちから提示される「犯罪者であることは見ればわかる」という理屈は、キャラハン刑事が以前に強姦魔を暴力で制圧した時と同じ理屈です。

そして何よりもスコルピオのルーツです。映画の中で明示されることはありませんが、スコルピオはベトナム帰還兵であることが履いているブーツからほのめかされ、その偏執性はベトナム戦争のPTSDである可能性が示されています。スコルピオがベトナム帰還兵であるという視点を持つと、キャラハン刑事と対峙したシーンは大きく風景を変えます。望まれない戦争で傷つき、厄介者として社会の隅へ追いやられた者が上げる「僕には権利がある」という叫びは、悲痛な被害者の叫びとしか言い様がありません

それはそれとして

キャラハン刑事の戦い方は本当にかっこいいです。

これは声を大にして言いたいです。最近やっている7 Days To Dieというゲームにも.44マグナム弾を使う銃が登場するのですが、高い火力と引き換えに装弾数が少なく、さらに射撃の隙もリロードの隙も大きいという強者のみが持てる銃です。

モデルとなった銃はキャラハン刑事の銃とは違いますが、高い威力と少ない装弾数と取り回しの悪さは同じです。こんな銃を使って犯人を追い詰め、その過程で弾数の管理も行い、必中の賭けを仕掛ける。やることが全部かっこいいです。サイコー!

終わりに

楽しめたので良かったです。

人に勧めるかどうかと言うと「今の基準で見ると厳しい部分もあるので、50年前の映画ということを踏まえてみてください」という感じになります。ハードルを上げるとよくないです。50年前!?

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