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その傷が癒えるまで。『私のトラウマについて』

私にはトラウマがある。
話そうとすると喉がつまり、涙が流れてくる。

記憶としては
もう、覚えていない。
つもり、
なのに体がそうやって反応してしまう。

包丁の先で肌をなぞったような
後から血がついていたと気がつく傷である。

それがトラウマというものなのだろう。

3年前

それは3年前のこと。
大学を卒業した私は設計事務所に就職し、
中国上海に引っ越した。

アトリエ事務所という、
少人数で建築のデザイン設計を行う事務所だったので
上司のご夫婦2人と社員は私ひとりだった。
その事務所には大学2年生のころからアルバイトで働いていて、学生の間に出張で中国に連れて行ってもらったりと、お世話になっていた。

私が就職するタイミングで拠点を東京から北京に移した。
わたしは南の拠点、上海にいた。

上海には事務所のパートナーとして一緒に仕事をしている人が。上海ではその人とふたり、いろいろと仕事を教えてくれた。

ただ基本は一人で上海の事務所で作業をしていた。
わからないことをすぐに聞くことができず。
作業が遅れ、
自信がなくなり、
朝起きるのがおっくうになり、
また自信がなくなりと、
負のスパイラルを作り出してしまっていた。

そしてトリガーになる事件が起こった。

和式トイレで用を足していたところ、
扉の下から見知らぬものが飛び出してきた。

それは人の手と小さなカメラだった。
そっさにそれをつかもうとし
逃げられ、
チャックを上げて、咄嗟に外に飛び出した。

隣の個室に逃げ込んだ犯人のドアを押さえていたが、
逃げらえてしまった。

外まで追いかけて捕まえたものの、
保安(バオアン、警備員)と叫ぶことしかできず、
多分、発音が悪く伝わらなかったのだろう。
顔を殴られた隙に逃げられてしまった。

その後、近くの売店のおばさんに警察に通報してもらい、
日本でもやったことがなかったが、
中国で被害届を出した。

一連のやりとりが防犯カメラに写っており、
その盗撮犯は割とすぐに捕まった。

1週間ぐらいは、
殴られた鼻と、
急いで走った時に挫いた足が痛んで
外に出られなかった。


その後も2ヶ月くらい中国にいたと思う。

すっかり疲弊していた。

すぐには事務所の人たちにも詳しく話すことができず、
中国の友人にも言葉の壁を超えて伝える気力がのこっていなかった。

ひととのコミュニケーションがうまく取れなかった記憶がある。小さなことでイラついていた。

徹夜が続いたある日、
母に何か一言LINEを送り。
その後かかってきた電話で泣き崩れ、
帰国をきめた。

言えなくて

犯罪被害に遭ったことよりも、
その後の行動が、自分の首を絞めてしまっていた。
つらい、きつい、
そんな一言を、周りに発することができたら
もう少し気持ちが楽になったのかもしれない。

また、
帰ってきてしまったことで、
期待に応えられなかったという記憶になり

私は、、、、、、
「実力がない」
「期待に応えらない」
「最後までやりきれない」
という自己暗示をかけてしまっていた。

ある日、母に話したことで気がつき無意識のレッテルにきがついた。それまでは言葉に詰まることがトラウマの反応だとは気づいていなかった。

その傷が癒えるまで

きっと誰にでも傷がある。
それを癒すために必要なのは
対話なのかもしれない、
時間なのかもしれない。

世界は常に優しいとは限らないが、
わたしにとってはこうして言葉にできたことが、
大きな一歩である。

こうして少しずつ変化していく自分を受け入れていこう。今はそんなふうに考えている。

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