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幼少期

私の最初の記憶は、2才から始まっている。
私は物静かで手のかからない子どもだった。
それは6個上の姉とそれに対する両親の影響が大きい。

姉は当時、すごく癇癪持ちでわがままだった。
欲しい物は泣いて暴れてでもねだった。
子どもらしい子どもだった。
それに対して両親は近所迷惑なんじゃないかってぐらいに怒鳴り散らし、時には手が出た。

その環境下で、私は自然に怒られないように、怒られないように、と両親の顔色を伺う癖がついたし、その間静かに本を読んでいた。

結果、たまたま家にあった子ども向けのひらがなとカタカナだけで書かれたさかな図鑑を覚えるぐらい、飽きるぐらい見ていたら幼稚園に入る前には自然にひらがなカタカナの読み書きはできるくらいになっていた。

そこから始まったのだ。
両親は勘違いした。
「この子は天才だ、将来きっと素晴らしい人間になる」、と。

物心つくかつかないかくらいで私は父親に言われた。
「ゆき(仮名)はとても賢い。将来は人の役に立つ人間になる。ゆきのおじいちゃん(父親の父親)は名の知れた外科医だった。きっとそうなる。医者になりなさい。」、と。

幼稚園に入る頃には私は医者になる、医者になるのだ、と勝手に将来の夢が決まっていた。

幼稚園に入った頃、3才からは塾に通い始めた。
平行してスイミングスクールと体操教室にも通い始めた。

いわゆる年少さんくらいで、私はひらがなとカタカナの読み書きは完璧だし、言葉も達者だしで当時から同じクラスの成長が遅れている子のお世話係になることが多かった。

私は本当に静かな子どもだった。
めったに泣かない、話さない、笑わない。
幼稚園での生活が不安な子の面倒を見ながら、同じ幼稚園にいる子たちは馬鹿だと無意識に思っていた。

他の子たちが「しょうらいのゆめ」に「おひめさま」とか「かめんライダー」とか「おはなやさん」、「けーきやさん」とか書いている横で私が書いたのは「おいしゃさん」。
これはこの先中学3年生くらいまで変わらない夢となる。

幼稚園が嫌いだった。
行く意味が分からなかった。
行っても図書室で静かに本を読むだけ。
お外で遊ぶ時間、お部屋で図工をする時間が苦痛で仕方なかった。
運動はからっきしできなかったし、図工も一切できなかった。
だからちょいちょいずる休みをするようになった。
仮病をつかって、お母さんもそれに従って幼稚園に電話をしていた。
幼稚園が嫌いなのは卒園するまで続いた。

4才になる頃には簡単な漢字の読み書きはできるようになっていた。
自分の名前くらいだったらフルネームで漢字で書けた。
小学校中学年くらいが読む本をもうすでに読むようになっていた。
特に伝記を読んでいた記憶がある。
マザーテレサ、ファーブル、ベートーベン、ナイチンゲール、アンネ・フランク等、他にもたくさんの本を読んだ。
本当は当時流行っていたセーラームーンとか、ポケモンカードとか、おジャ魔女どれみとかのおもちゃが欲しかった。
けれど私が両親に直接欲しいと伝えたのは本一択だった。
なぜなら姉を見ていたから。
姉が欲しいと言った物は却下される。父親は駄目だと怒鳴り散らかす。
大人になった今ならなぜ駄目だったのかは理解できる。
姉は過剰に大量に欲しがったからだ。
だが、当時の私はそういう子どもらしいおもちゃを少しでも欲しがると怒鳴られる、怒られる、と勘違いした構図が思考の中に出来上がっていた。
唯一どんなにねだっても怒られない物が本だった。
父親は私が欲しいと言った本は全て喜んで買ってくれた。
この本が欲しい、あの本が読みたい、そう言う度に両親はとても嬉しそうにしていた。
だから私は我慢したのだ。
本当はお友達が持っている流行りの変身グッズが欲しい、きらきら光っている魔法のステッキが欲しい、リカちゃん人形が欲しい、そういうのを全て飲み込んだ。
私は手のかからない子どもだった。

年長になった頃、幼稚園も周りも小学校に上がる準備をする。
「次は小学校だね」、「ぴかぴかの1年生だね」、それは子ども心に私は恐怖を覚えた。
なぜなら、姉はテストで100点以外の点数を取って帰ると両親から叱られていたからだ。
「なんであとちょっと頑張れなかったの」、「なんでこんな問題を間違えたんだ」、と責められては反発して癇癪を起こす姉を間近で見ていたから、私は小学校に上がったらテストで100点満点を取れないと怒られる、勉強ができなければ失望されてしまう、という怖いところだと思っていた。

姉は気が強いから言い返せるけれど、私は怒られたら立ち直れない、傷付いて泣いてしまう、そう思っていたから今よりもっと生活が辛くなると予感していたのだ。
毎日が楽しくなかった。憂鬱だった。

ちなみに同じ年の子どもたちとはうまくコミュニケーションは取れなかった。
例えば、並んでいる列を横入りされても言い返せなかったし、仲間外れにされたときも言い返したり先生に言ったりすることもできずに静かにその場を去る子どもだった。
だから幼稚園が嫌いだった。
嫌なことがあっても泣きわめいたり大人に訴えることもできず、私はきっと子どもらしくない子どもだった。
大人たちにとっては本当に手がかからない「良い子」だった。

ここまで書いて、両親を酷い人間のように書いたが当時の私は両親が大好きだった。
そりゃそうだ。
子どもにとって親はすべての世界であり、見捨てられたら世界が終わる。
後述するとは思うが、両親もきっと私たち姉妹を愛していなかった訳ではない。
誕生日はしっかりお祝いしてもらったし、クリスマスもプレゼントはもらっていたし、ご飯も食べさせてもらったし、幼稚園にも習い事にも行かせてもらったし、家族で旅行も外食もしていたし、きっと生活水準は高いほうだったと思う。

ただ、幼少期から15才くらいまでの私を例えるなら常に息が詰まりそうだった。
常に細い糸の上を綱渡りさせられているような、そんな子ども時代だった。
失敗したら世界が終わるんだと思っていた。

私が4才のとき妹が産まれたのだが、大人になった現在、姉と私と妹はとても仲が良い。
ただ、私たちは毎回笑って言うことがある。
「うちらの人生って、どの人生を経験しても地獄だよね~」、と。
そう、一言で言うと地獄なのだ。
大人になった私たちはたくさんの苦労を経て一般社会で生きる大人にはなったが、そこに行き着くまでは計り知れない苦労を伴った。
私も姉が歩んだ人生、妹が歩んだ人生、そのどちらも苦痛に満ちていることを知っている。
それはきっと姉も妹も思っていることは同じだ。

幼少期の私について書き残したことは無い。
具体的に掘り下げるとまだまだたくさんあるが、要点はおさえたつもりだ。

以上が私の2~6才くらいまで。
時間があって気が向いていて気力があるときに次は小学生の私を書こうと思う。


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