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芭蕉という一人の男の生き方

 芭蕉がすごいのは常識的世界から脱出して隠者となったことであると考えてしまう。しかし本当にそれが立派な点なのだろうか。

 当然風雅的世界に没頭しようとしても食い物が必要になる。そのため通俗的世界から完全に離れることは出来ない。僕は今も芸術的世界に憧れながら、一方で働きながら安定した収入を得たいと思っている。常識的な幸せを捨てることは身近な人を不幸にするだろう。例えば結婚を諦めることが簡単に出来ないのは親を不幸にすると感じるからであろう。付き合っている人も不幸にするだろう。そういう人が不幸になることは自分の不幸である。だから捨て切れないのであり、それがこの世界での常識的感覚ではないか。

 39歳のとき芭蕉庵が燃えて、住む家がなくなった。そして約2年甲斐の国で苦しい生活を送る。41歳の頃江戸に戻り、落ち着いた隠者生活を送れるようになった芭蕉の句からは、世間への反抗や中国の詩人にならった気取りが消えている。これは世俗的世界を捨てたからこそ達成できたと言える。

 あらためて考えると芭蕉の凄いところは、短い人生において自分らしさを極めた点にある。そこに憧れるのであって、隠者生活に憧れるのではない。なんとなく隠者にならなければ偉大な作品を残せないと感じてたが、おそらくそんなことはないだろう。芭蕉の場合は、世俗的幸福を捨てる必要があったというだけである。なぜなら彼が、世俗的幸福とは別世界の文学的世界への貢献を求めたからである。

 どこで生きようと、その人にはその人なりの苦しみ悩みがある。そこと戦う必要がある。選択して進む必要がある。芭蕉から学ぶべき生き様としては、自分の進みたい道の発見と、その道を追究するために選択する意志である。世俗的な道とそうでない道の二つしかないはずはない。果たして僕の求めている道はどのような道だろう。

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