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転職、あるいはアケルマン映画祭

 9月2日、金曜日。仕事が終わって、私は勤務先の最寄駅からの最終電車には乗らず、すこし歩いたところにあるネットカフェ快活CLUBに泊まった。四角く区切られた空間で黒い座椅子に凭れながら、画面が明るすぎるデスクトップPCで「アケルマン映画祭」について調べる。2022年4月に東京で始まったシャンタル・アケルマン映画祭は日本各地を巡回し、そのほとんどはすでに終わっていた。しかし金沢市にある映画館シネモンドでは、まさに明日からアケルマン作品のいくつかが上映される。それを確認した私は、アイコスを吸いながらドリンクバーのカルピスで睡眠改善薬ドリエルを飲み込むと、数分後にはなんとか目を瞑れていたみたい。疲れすぎると逆に寝れないって27歳にしてやっと知った。


 9月3日、土曜日。無人精算機とのやりとりを終え、私は青白い朝の王子駅へ向かう。そこから京浜東北線で大宮駅へ、そして北陸新幹線で金沢駅へ辿り着くと、時刻は15時19分だった。そこから私は28分間、これが9月の北陸か、と感じながら歩いた。金沢は雨だった。折り畳み傘に歩きスマホで「北陸地方」について検索してみると「福井・石川・富山・新潟の四県をいう。狭義には、新潟県を除く三県をいう。」と書いてある。だから、狭義の私は、北陸に来るのは初めてだった。最近できた顔の広い友達はもうすぐロンドンへ行ってしまう。

 シネモンドはとてもかわいいミニシアターで、デパート的な建物の中にあるのは東京のキネカ大森っぽくてよかった。アケルマンの『私、あなた、彼、彼女』はとてもしずかな映画だった。しずかだけど蠢いている。蠢きの正体は同じじゃなくても、身体の内部で何かが蠢いているという感覚だけなら私も同じだ、と思えることが錯覚だとしても嬉しい。映画が終わったとき、場内が明るくなっても靴を脱いで座席に体育座りしたまましばらく動かないでいる高校生くらいにみえる人がいて印象的だった。私と彼と彼女についての映画をあなたがみている。まさにそういう空間だった。

 誰にも送らない手紙に感情の説明を書き殴ってみるだけではぜんぜん足りなくて、だからこの映画はつくられたんだと思った。黙っている被写体の表情、そしてそれを映すこと自体をあくまで言語としてアケルマンはこの映画を組み上げた。伝えたいわけじゃない、意味を放出したい、実存を排泄したい、そんな衝動かもしれない。

 上映中なにより私がいちばん考えてしまっていたことは、人間の外面ってその人が今なにを思っているのか、なにを企んでいるのか、ぜんぜん充分に表現してくれないんだなってことだった。そのことを突きつけられた。そしてそれは私が最近すごく感じていたことでもあった。どんなに親しく会話を重ねたつもりでも、他人の中身がほんとにぜんぜんわからない。どんなにおしゃべりな人だって人生のほとんどの時間は黙っている。ふだんから寡黙めな人が何を考えているのかはもっとわからない、わからなすぎる、沈黙の表情が雄弁だなんて大ウソだ。言葉を発しているときもいないときも、言わないようにしていることやそもそも関係ないことが、頭の中ではぐるぐるぐるぐる渦巻いていることは、自分を見ていればわかってしまう。

 なのに、自分がこう思うからこの人もそうだろうと思っては失敗し、こんなことを考えるのはきっと自分だけだから他人に簡単に当てはめてはいけないと思って失敗する。ましてやこれは映画なんだからすごく複雑で豊かな表情をしながらでもそもそも、このシーンはもう充分撮れたな、とかすら同時に思ってるかもだし。

 外に出たら雨がやんでたので2時間くらい歩いた。ところで私は今日どこで寝るんだろう。


 9月4日、日曜日。結局、快活CLUB金沢片町店に泊まった私は、せっかく遠出をしにきているのにたっぷりたっぷり眠ってしまっていた。有人レジで、お金を払って外に出ると、空は昨日とは打って変わって晴れ渡っていて、すこし晴れすぎていた。シネモンドや快活CLUBのある香林坊の近くには「犀川」が流れていたので、シネモンドでアケルマンを観ること以外になんの計画もない私は、川に沿って歩いてみた。室生犀星記念館に寄ったあと、犀川緑地公園というところでしばらくベンチに座っていたらついさっき起床したはずなのに、また眠ってしまった。

 大学の同級生がアケルマンのファンzineをつくった。私はそれを校正させてもらった。だから私はこれでやっと、校正者です!って名乗れるかもしれないなあ。だからもうもっと食える仕事に転職でもしてしまおうかしら。別の同級生は人生で初めて「詩」を書こうかなと言っていた。私は書いたら絶対見せてね!と夜中に返信したけれど、こうやってすぐにプレッシャーを掛けてしまうのは昔からの悪い癖だから、悪い癖は目の前の川に流して捨てて帰ってしまいたいような気分だよ。外で寝たのは何年ぶりだろう。ねえ?

 肩書きにこだわるのは古いことだろうか。『ジャンヌ・ディエルマン ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地』もそうだったけれど、スクリーンに映る人間たちは名刺も身分証も見せてくれることはない。誰かに名前を呼ばれるシーンがあったらやっと名前がわかる。連続するいくつもの仕草が退屈なほど映されてやっと営みが見えてくる。他人との会話の積み重ねのなかに小さな思考の癖をほんのわずかに感じはじめる。その一瞬の感動だ。でも誰も私のことを知らない場所では、私は記号を名乗ることしかできない。記号は人見知りを隠してくれる。いきなり本当の好き嫌いを披露したりなんかできない。長く付き合ってくれている少ない友人たちは、私がみんなを見ているのと同じ濃さで私のことを見てくれていただろうか。〈近くて遠い〉系のレトリックのことを私はいままで甘く見てきたけれど、生きれば生きるほど〈近くて遠い〉と形容してしまいたくなるものが増えてくるのはたしかにわかってきた。そんな気持ちはあまり口に出すものじゃないよ、と、きっと思われてばかりの夏だった。

 アケルマン映画祭は明日からもしばらくここで続くみたいだけど、私はもう新幹線に乗る。帰ったらまだ読んでない浅田彰の『逃走論』を読もうとなんでか思った。本棚のどこかにあるはず!

 グリルオーツカという洋食屋さんがよすぎて2回いきました。気にいるとすぐ連日いったりしてしまう私は、勢いは大事だ! ハントンライス最高!


 9月5日、月曜日。日常へと舞い戻って1週間の始まりなのにもうすでに疲れている私は仕事が終わると、閉店間際のユニクロへ、白いYシャツを買いに走った。来週、転職のための採用面接を受けるからだ。



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