引用日記㉘
私は、自分のなした軽率や醜悪について、意識してやったことであるから、後悔するところはない。それどころか、もしそれらをくぐりぬけなければ、私は単なる吃音男でおわっていたであろうと確信している。言葉の吃音のみならず、精神の吃音が悪化していたであろうとすら推測される。極端な物言をあえてすれば、ちゃちな闘争ではあったが、信頼と裏切、理想と現実、希望と絶望、勇気と怯懦、その他さまざまの人間存在における二律背反の基本型を味わうことができたように思う。だから私は六〇年安保闘争に際会できたことを幸運だったと考えている。
西部邁『六〇年安保 センチメンタル・ジャーニー』(文藝春秋、1986)