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旅は諏訪湖、あるいは武田百合子のように

 ぎりぎり雪は降っていないけれど、という感じの肌ざわりの冷気のなかを歩いている。
 武田百合子をはじめて読んだ。遊覧日記。遊ぶように歩き、拾うように書く。風景や人や物事をひとつひとつ確かめていくようなまなざし。遊覧日記は散歩の現象学だ。そこにはいまの私にとって近しい地名もいくつか書かれていた。そしてそうではない地名も。でも、いずれにせよそれらのエッセイのほとんどは昭和六十一年に連載されていたものだし、書かれているのはたいがい、その時点から見てもすでに過去のことだった。諏訪湖は別にそこに出てきたわけじゃない。諏訪という地名もひと月ほど前の私にとっては決して近しいものではなかった。でも来た。急に諏訪湖が気になって、いろいろと情報や画像を検索した。そもそも私は、滝とか川とか湖が好きなのだ。みんな好きか。みんなが好きで私も好きなのだ。水辺。私はいま諏訪湖を見ている。ひたすら湖岸を歩きながら。
 諏訪湖と呼ぶとき、なにが呼ばれているのか。水はうごいている。湖の水だってずっとここにとどまっているわけじゃない。湖から川から海へ。海から空へ、山へ、川へ、湖へ。たぶんこんな感じ。つながってるのに名前は変わる。見ている私は包まれている。縛られている。呼ばれている。
 私と呼ぶとき、なにが呼ばれているのか。こうしてふらふらと歩いていると、いろんなものがやってくる。音、匂い、言葉、イメージ。いろんなことを考えてしまう。こんなもんだろうか。もっと素に、足が勝手に交互に出て、ただただ風景が流れて、気分が満たされる。そんなふうに歩くことはできないだろうか。いろいろ思い浮かんだりすることも楽しいし、そのために歩いているっていうのもあるんだけど。
 とにかく歩き続けてみる。諏訪湖の一周は約十六キロメートルで徒歩だとだいたい四時間だけど湖岸の道が整備されていてほとんどずっと水辺に近いところを歩いていける。地元の人も歩いたりジョギングしたりしている。諏訪湖のよさのひとつは、大きすぎず小さすぎずなところだと思う。しかも、かたちが丸というか四角というかに近いから湖岸を歩いているとほとんどいつでも諏訪湖の全体を見渡すことができる。パノラマ。一日目は夜に反時計回りで一周歩いて、二日目は昼の時計回り、いまは昼の反時計回りを歩いている。ずっと湖に沿って歩いているわけじゃなくて寄り道もした。一日目はハルピンラーメンを食べた。二日目はみそ天丼と蕎麦。温泉にも入った。あとは、きのことうなぎと馬刺しも食べて帰りたいな。いつ帰ろうかな。
 結果的には四日間ほとんど晴れか曇りのなかを歩くことができたけれど、二日目の途中だけ急に小雨が降ってきた。さーっと細かい雨。湖上に短い虹が架かる。雨はあられになって草木に当たる。音が鳴る。晴れる。薄暗く濁った雲が湖上を通って対岸へうごいていくのが見てわかる。時間も気にせず湖岸を歩き続けていくと、さっき歩いていたところが今度は景色になる。ときどき止まっては写真を撮る。とくに夕暮れどきはすこし歩いただけでも空の色が変わるので何度も撮ってしまう。
 湖畔には無料の足湯がある。裸足になりズボンの裾を膝下まで上げて、歩き疲れた足を浸けるとあたたかさがじーんとくる。目の前には夕暮れの空、山の稜線、対岸の灯り、風になびく湖面、湖岸の道、芝生の広場、手前の道、すらっと立つ一本の松の木。それらが奥からぎゅっとひとつの視野のうちに重なっている。奥のほうの道をときどき犬の散歩が通り過ぎる。右のほうから青いダウンを着た子どもが走ってきてひとりで奇妙な動きをしている。いろんな方向に左手右手を下げたり上げたり飛び跳ねたり腰をくねくねさせたりしている。踊っているのかと思ったら、さらに右のほうから遅れて歩いてくるふたりの大人にむかって手を振っているのだった。声は聴こえてこなかった。冬の夕暮れはすぐに終わってしまう。暗くなると対岸のヘッドライトたちがきらめく。車や街の灯りが湖を縁どるような景色になる。平らな湖面に灯りがすうっと映る。黒くなった諏訪湖は鏡のよう。裂け目のよう。交叉する。地と図の。湖へと。裏返る。手品。窪み。闇。
 夜。秋月そばという店の座敷席で、山菜ときのこの乗ったあたたかい蕎麦を食べた。野沢菜と熱燗一合もある。店内はほとんど満席で、観光客も地元の人も混じっているようだった。旅をしてると日付がわからなくなるねぇ、もう三十一日よ、と隣りの席の男女が話し合っていた。その日は大晦日なのだった。ざる蕎麦を食べている人もカツカレーを食べている人もいた。大晦日の夜に蕎麦屋に来てひとりでカツカレーだけ食べている男の人がやけにかっこよくみえた。ずいぶん食べたし歩いたし。そろそろ帰ってもいいような気分になってくる。見たかった以上の諏訪湖がいっぱい見れた。次の日、諏訪大社で初詣をしたあと、放浪美術館(茅野にある山下清の美術館。いい施設名だなあ。元日でもやっていたんだなあ。物販の店員さんがすごいひと)に行ってから東京へ帰ってきた。うなぎと馬刺しは結局食べなかったけれど、それはまた別の人生に。



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