引用日記④

フッサールはしばしばデカルトに倣って「コギト」という語で志向的体験を表示したとしても、志向性を決して能動的・顕在的な作用(Akt) の意味だけで理解してはいなかった。既に『イデーンⅠ』においても彼は、「我あり」を瞬間的な点的なコギトにおいてではなく、「流れのうちにある生」(III.106) において捉えている。だからこそ、フッサールは、顕在的体験は非顕在的体験の「庭」に、すなわち規定可能的未規定性の「地平」に取り囲まれている(III.78, 101) と言うことができた。

浜渦辰二「フッサールにおける生世界 --厳密学としての哲学という見果てぬ夢--」http://www.let.osaka-u.ac.jp/~cpshama/gyouseki/lebenswelt.html

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