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写真と記憶

先日、政治犯としてある国から追放され、現在ロンドンに亡命している写真家・映像作家からメールを受け取った。その内容は、写真の本質と、アーティストの表現の自由について深く考えさせるものだった。

この写真家は、自国の政府によって大切な写真作品を没収されてしまったという。しかし、その作品のすべてを記憶していて、鮮明に想起することができるそうだ。そして、その記憶を頼りに、われわれの脳内イメージ解読技術を用いて、彼の脳から作品を再現してほしいというリクエストだった。

現在の技術では、脳活動パターンと画像特徴の対応関係を機械学習で学習したAIモデルを利用して、ヒトの脳活動の信号がどのような視覚経験に対応するかを予測することが可能になりつつある。しかし、この技術にはまだ多くの課題がある。人が実際に画像を見ているときの脳活動であれば比較的高い精度で知覚像を再現できるが、心の中で画像を思い浮かべているときの脳活動からの再現はまだまだ精度が低い。また、同じ人でも脳と画像特徴の関係が常に安定しているか、脳の可塑性がこの対応関係にどのような影響を与えるかなど、未解明の部分が多い。

さらに、脳内の情報表現(神経コーディング)は複雑だ。知覚、想起、夢などの間である程度共通性があることが分かっているが、これらがぴったり一致するわけではない。つまり、写真家が記憶から想起したときの脳活動を「知覚の神経コード」で正確に解読したとしても、実際の写真との間にはさまざまな差異が存在する可能性が高い。

このエピソードは、写真の本質と記録の意味について、私たちに再考を促す。従来、写真は瞬間を捉え、記録する手段として重宝されてきた。しかし、脳解読技術により、経験そのものを直接記録し、後で再現する可能性が拓かれた。これは、写真という媒体が持つ二面性をより鮮明に浮かび上がらせる。一方は、カメラで捉えた光学的な情報としての物理的な記録。他方は、経験や感情を含む豊かなイメージを誘発する触媒としての心理的・感覚的な記録だ。

脳解読技術は、単に視覚イメージを可視化する手段にとどまらず、私たちの内なる世界を探索し、拡張する可能性を秘めている。脳は画像だけではなく経験の全体をコードしていると考えると、脳信号の解読が目指すのは、単なる画像の可視化ではなく、人間の経験の記録・再現だ。

写真家の記憶に残る鮮明なイメージは、カメラのレンズを通して機械的に捉えられた瞬間を超越している。それは、その瞬間に付随する感情、その前後の文脈、作品に込められた思想、そして時間と共に熟成された解釈まで、すべてを包含した複合的な「経験」なのだ。

脳内イメージ解読技術を含む脳テクノロジーの発展は、写真や芸術の概念を大きく変える可能性がある。将来、私たちは経験そのものをより直接的な形で記録し、共有することができるかもしれない。これは、表現の自由に新たな次元をもたらす可能性がある。しかし、同時にプライバシーや個人の内的世界の保護という新たな課題も浮上させる。

政府による弾圧や作品の没収という極限状態に置かれながらも、自身の作品を守り抜こうとする写真家の姿勢は、アーティストの矜持を体現している。脳内イメージ解読技術はプライバシーの侵害をもたらし、個人の自由を抑圧する危険性をはらむものとして批判されてきたのだが、今回のケースは、この技術が抑圧に抗し、アーティストの表現の自由を守る新たな手段としても機能し得ることを示している。

写真家は、現在の技術では難しいかもしれないことを承知の上で私にコンタクトしてきたようだ。私も、現状では写真家が期待する精度で脳内イメージを再現する技術はないと率直に返答し、彼もそれを理解し受け入れてくれた。しかし、このやり取りは単なる技術的な可能性の議論を超え、アーティストの矜持、そして芸術と記憶の本質について深く考えさせられる機会となった。