20210203 どうしようもない、全体と個
全体と個に関して考えていた。この世界は、私が私として、個人が個人として生きることに価値がある。個が部分に影響し、部分が全体に影響する。悲しいことに、逆もあるだろう。大きすぎる全体に潰される個もある。難しいけれど、そのようなことを実感し受け入れる必要がある。仕事上、個でも視点を動かしながら全体を見る必要がある。それは別の個のためである。しかし、自らが個であることを忘れて全体に迎合し続けると、個に戻れなくなってしまう。個から見る全体は、幻想である。全体は司令塔のいない個の塊にすぎず、アメーバのように動く、目的もないから正解もない、ただの集合体。全体が存続するようにだけ、動いている。最近は、全体だけではやっていけないので、全体の外にある"外界"も見る必要がある。全体は段々大きくなる。
部分は全体の存続に寄与する。腕や足を失っても、体が生き続けるように、一部分がなくなっても全体は生き続ける。少し不自由なだけ。全体を構成する細胞、である個は時間が経てば入れ替わり、また全体を構成する。そうしてそのうち致命的な傷を受けて徐々に部分が死んでゆき、いつの間にか全体も死ぬ。そうして外界は生き続ける。外界も同じように、外界の一部出会った"全体"が死んでも、生き続け、ある時徐々に死に向かう。変わらない世の常。
私たちは所詮、2世代後ぐらいまで、100年後の未来までしか思いを託せない。先の未来には考えが及ばない。自分の今の立場と、未来に対する妄想を比較することしかできない。(マルクスならば200年後まで思いを馳せただろう。100年後というのはあくまで平均値である。)
そんなことに、非力だなとか、無能だな、とかそんなことを考えながら、生きていく。生きていくしかない。無能で、何をやっても無意味で、せいぜい100年後にしか影響を与えられないが、個として全体にできることを生業とし、それで飯を買い、個として飯を食い、排泄し、睡眠をとって休息し、次世代を産む。多分、個としてはそれができれば十分だ。ただ生物として、そこで生きていればよい。生業も、余裕がある個がすればいい。そんなことしかできなくてよい。