20200409 考えているようで何も考えてなかった
この間まで、自分自身について興味持ちすぎていた。なぜ自分はこう思うのだろう/思ってしまうのだろう、と考えては、自分なりの答えを持ったり、捨てたりしていた。悩むのが好きだった。まったく能力のない自分の外面をどう繕っていくか、とか、その場しのぎのことだけを考えていた。転職1年目で余裕もなかったのかもしれない。自信も余裕も、それを改善していく手立ても、改善したいという意欲もなかった。ますます自分に自信が持てなかったし、そういうことを打ち明けられる友人もいなかった。
きっかけは、突然来た。じわじわとその傾向があったのかもしれないが、自分に興味がなくなったのだった。自分を守ることも無意味だと感じた。自暴自棄の果てに、というよりは、周囲にいた頭がよくて私を操作したがる人たちがいなくなったことが原因だったと思う。残ったのは、頭がよくて私に自由を許してくれる人たちだった。それで、一気に考える余裕ができて、そしてもっと外の世界のことを知りたいと思った。その他のきっかけは読書(『平均思考はやめなさい』とか『ファスト&スロー』)だったかもしれない。自分がどうがんばったところで平均に近づけるわけはなかったのだ。平均思想を理解しようと努力するも、安心が得られなかった。そして、どうも思考方法に偏りがある。私は多動で注意欠陥気味で、(ファスト&スローでいう)システム2をもっと育てて働かせないと正しい思考はできないと感じた。外の世界を知らなければという意識が芽生えたのも重要だったが、自分自身で正しく考えることや、言葉を正しく使うことに注力しなければいけないとも感じた。
この時点で、かなり遅れをとっている。自分で考えることなんて中学生でもできることだ。30を超えたいい大人が、これから考えると言っている。うひい、恥ずかしい。まったくもって、私の世界はひどい世界だ。自分の子供には決してそうはさせたくない(毒親の誕生)。
いちから考えることは怖い。今まで暗記して使えばよかったことも、人の指示に従って行えばよかったことも、すべて根拠を求めて改めて考えなければいけない。巨人の肩に乗る前に、その巨人について調べなければならない。
余談の余談だが、これまで悩むことが好きで決められなかった理由の一つは、人を信じられなかったことにあるのでは?と思う。人の信頼の仕方がわからなかった。私と同じように精査することなく感覚で話しているのでは?という不信感があった。賛同も否定も、発言者が好きか嫌いかで決まっていて、根拠となる理由を好き勝手集めるだけなのでは?他人の意見なんてどうでもよく、自分で考えて精査すればよかったのに、どこまでもいっても馬鹿である。でも、もう前に進もう。地続きなのだ。これまでの私が馬鹿なのは当たり前だ。なんかもう「考えてますよ」みたいなフリはやめよう。そっちの方が馬鹿みたいだ。
自分ですべてのことを精査して考えることは、不安ではあるけれど、大丈夫。私は自分が何かをし始めたら指数関数的に改善されていくことを知っている。私のいいところは反省できること。救いようがない馬鹿だと言われても、大丈夫。高校・大学は不真面目だったけど、最近はきちんと文字が読めるようになってきたし、知らない単語は調べるし、論理的に正しいということはどういうことを指すのかを学んだし、明日はもう少し理想に近い人間になれるはずだ。がんばろう。