見出し画像

独りで音楽をやり続けるということ(その2)&文章スタイルの変更について

これまでnoteに残してきた記事を振り返ってみて、文章スタイルに統一性がないことに気が付いた。それを切っ掛けに色々思いめぐらした結果、このことは少し前に上げた「独りで音楽をやり続けるということ」という記事の内容にも関係することらしいと気づいた。

まずは文章スタイルの変更・統一について。
Youtubeチャンネルを開設して以降、そこにアップした楽曲に関するnote記事に、敬体(ですます調)のものと、常体(だ・である調)のものがあって統一性が無かった。それを今後基本的に常体に統一することにする。敬体はその必要が生じた時にのみ用いる。

しかしこれを切っ掛けに、なぜ私がこのnoteを始めたのか、またYoutubeチャンネルへの演奏動画アップすることにしたのか、あらためて自らに問うことになった。

私の文章や演奏は、基本的にモノローグ・独白に近いと感じていた。しかし実は、自分の内なる…もう一人の自分との対話の中に生まれている。そういう意味で一人の世界の中でなされるダイアローグ・対話だ。
そのダイアローグの中に、今のところ第三者が直接関わることは無い。何かを誰かに伝えたいという欲求も希薄で、演奏については人前で演奏したいという望みも無い。むしろ独りきりで演奏できることを喜んでいる。
しかし文章の場合、敬体を用いれば、そこに第三者の存在を加えることを意味する。

では独りでやることにこだわるのなら、なぜnoteやYoutubeで公開するのか?というと、例えそれが独りの営みであっても、外界に対して開かれたものであるべきと考えているからだ。わたしにとってその営みは、好き勝手出来る身勝手で閉じた世界なのではない。極めて個人的な独りの営みなのに、それがやがては無名性・普遍性を帯び、開かれたものとなってゆく可能性があると感じているからだ。

PS.追記
極めて個人的な独りの営みなのに、それがやがては無名性・普遍性を帯び、開かれたものとなってゆく という文の意味についての補足。
例を挙げると、松尾芭蕉の「閑さや岩にしみ入る蝉の声」とい俳句は誰もが知っている。その句から受ける印象、それを心に思う浮かべた時の感覚の広がりは、もはやその句を知る人すべてに共有された普遍的体験だ。

そのような意味です。ただ私はそれと同等ではないけれど…

以前アップした下の記事で、そのことに触れている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?