手の記憶

 今日は騒がしい一日だった、と歌苗はため息をついた(しかし、彼らが来てから静かな日があったのだろうか?)。
 夕ご飯の片付けをしながら、ふと昼食の片付けの時のことを思い出した。あの時は戸棚を開けたらなぜかベトがいて……。その時もなんでベトは必死に私から逃れようとしていたのだろうと思ったけど……。そしていつの間にかバダちゃんやチャイコちゃんも去って、奏助も結局行っちゃったし、私一人だけが取り残されたと思っていたら……。
 あの時は本当に嬉しかった、と思った。一人で取り残されるという感覚は、昔も感じた大きな喪失感だ。歌苗は一人で音羽館に住んでいたときの心細さが忘れられない。でも今日は私を救ってくれた手があった-。あの時、ベトを見て本当に嬉しかった。でもそれもムジークの影響だったの?今、あの時を振り返ってどう思う?
 歌苗はこの先を考えるのが、怖い気がした。もしムジークの影響だったなら。ベトが私に手をさしのべてくれたのもその時の感情だったら。それどころか、ベトがただ単に困っている人を見捨てられないだけだったら。自分に都合がいい想像と、それを打ち消そうとする臆病な推測が交互に頭を駆け巡る。今は考えないことにしよう。そう、これからやることに集中するのよ。まずは洗い物を終えるのよ。この家はただでさえ人が多いんだから、もたもたしていたら家事が終わらないのよ。大体今日は何でもうみんな寝ちゃうのよ!ムジークで疲れたって言ったって、私だって同じく、疲れてるんですからね!私だって早く寝たいわよ!
 自分に命令を下し、呑気なクラシカロイドに心の中で文句を言い、流しを磨くことに集中した。気をそらすために八つ当たりしていることにも気づいていたが、敢えて怒りの方向へ心を向ける。そう、単純作業に没頭しなさい。歌苗の頭がささやき、ともすれば今日の出来事を振り返りそうになる心にブレーキを掛ける。
 やっと終わった。歌苗は思わず息をつき、手を洗う。そして就寝の準備に意識を集中させながら振り向いたら、ベトが静かに歌苗を見つめていた。
 
 一体いつからそこにいたのだろう?台所でベトと二人だと否が応でもチャイコのムジークの世界を思い出す。あの恋と混乱に包まれた世界を。でもあれは恋だったの?単なるムジークの影響じゃないの?ベトは一体ムジークの後、なんであんなに混乱していたの?
 「一体いつからそこにいたんですか。見てたら手伝ってくれたらよかったのに、ベトさん。」
 歌苗は自分の混乱に気づかれないことを願いながら、必死に普段通りに振る舞おうとした。


 ベトも見つめているつもりはなかった。一人で延々と演説(と言う名の照れ隠し)をしていたら、徐々に疲れて、疲れと同時に自分の状態も客観的に見られるようになり、喉も渇いたので水でも飲もうかと思っただけだ。そこで台所に来てみたら、歌苗が一心不乱に洗い物をしていたところだったというわけだ。さすがに最初は何とも言えない決まりの悪さを感じて、このまま静かに立ち去ろうかと思ったが、なんとなく彼女を眺めていたかったのだ。もし気づかれれば、手伝わないことに文句が飛んでくるだろうことも分かっていたけれど。なぜ眺めていたいのか、ベトはぼんやりとは気づいていた。

 そう、この音羽館で歌苗と暮らすようになってから、ベトは様々な感情を改めて学んでいた。探究心、克己心。最初は己の感情のみを見つめていたが、いつの間にか大勢と暮らすうちに、人に対する感情も出てきていた。ヴォルフが山で暴走しかけた時、ショパンが画面の向こうに行きたいと行った時、少年が何かをつかもうとしていた時。
 そこへ今日チャイコフスキーが今まで見たことないムジークに俺たちを巻き込んだ。これが恋という感情なのか?なぜか歌苗を見るなと本能が命じ、必死に隠れようとした。それでも歌苗が絶対来るであろう台所に隠れたのは何だったのか?
 なぜか?何だったのか?と言いながらもベトはその感情が「恋」と呼ばれるものであろう事に気づいていた。だからこそ必死に隠れたのだ。もしこの恋心がさらけ出されたら、小娘も死に巻き込んでしまう-。

 恋すれば死ぬ、そう思い込み、それでも文字通り崖っぷちにいる歌苗を見捨てることはできずに手をさしのべた。恋とは恐ろしいものだ。そういえばリストはいつも愛を叫んでいたが、恋については語っていなかったな。どちらかというとショパンの方が恋に詳しそうだ。ヴォルフはつかめん。博愛主義者か?あの後輩は恋してるのか?俺に対してまとわりついていたら恋なんかしている暇あるのか?シューベルトも恋よりは愛、それも音楽に対する愛にあふれているのだろうとベトは考えていた。
 クラシカロイドに思いを巡らしながら、思いは目の前で洗い物をしている歌苗に移っていく。少年のことは素通りである。
 一心不乱に家事をしている歌苗。「私は大家です。」といつもはクラシカロイドと一線を引いた感じで生活を守ろうとしている学生。若いながらも頼もしさすら感じていたが、今日掴んだ手の華奢さには内心驚いていた。
 そんな小さな手で、この大きな館と我々の生活を守っていたのか。本来だったら、学生らしく勉学に専念しているはずなのに、保護者もそばにいない中、日々の生活を支える手。
 勝ち気な彼女の印象が強いが、今日の彼女の手の感触は、印象を大きく塗り替えるには十分なほど、ほっそりとしていて、強く握りしめたら折れそうなほどだった(とはいえほどけないほど無意識のうちに握りしめていたようだったが)。ベトはもう、歌苗の手を忘れられない。

 そんなことを考えている内に、さすがにいくらか落ち着きは取り戻していたようだった。歌苗が珍しくベトさん、と呼ぶのを聞いて歌苗の混乱を感じ取るほどには。俺に警戒しているのだろうか?
 歌苗と同様、ベトも感情を探るには臆病だった。勘違いとはいえ、告白もしていないのに振られたのはやはり臆病となるには十分な理由だった。
 
 「喉が渇いた。水を飲もうと思ったのだが。」
 「そりゃそうでしょうね!あれだけ延々としゃべってましたもんね!」
 ぶつぶつ言いながらも歌苗はコップに水をくみ、ベトに渡そうとした。いつも通り、小言を言い続けようとしながらも、コップをとろうとするベトの手を見ると、さっきまでの考えがどっと蘇ってきて、もう頭がブレーキを掛けようとしても、どうやっても心が止まらなくなってしまった。

 大きい、力強い手。火炎放射器も扱える手は、歌苗の手より相当大きい。男の人の手なのだ。と歌苗は思った。この大きい手で、私の手をつかんでくれたのだ。それだけは事実だと歌苗は思う。ほかの誰でもなく、私を助けようとしてくれたのはベトだった。
 そう、ベトは、やさしいのだ。ヴォルフの出来心でピンクの落書きがされた屋根をごまかすために、ベト自身が傷ついても嘘をつこうとしたみんなを守ろうとしたように。モツのレクイエムの炎に包まれそうになった時も、そしてこの館が取り壊されそうになった時、ベトが真っ先にタクトを振って救ってくれた。ベトのやさしさは、人に対して向けられる。ベト自身には頓着しないくせに。
 私が大変なときにはベトが真っ先に駆けつけてくれてムジークで救ってくれ、声を掛けてくれた。今日も私が崖から転落しそうな時に、あんなに見るのを拒んでいたのに真っ先に手を-。そこまで考えて歌苗は気づいた。
 
 なぜ、ムジークを出さなかったのだろう?
 
 いつもはあの大きな手にタクトが握られ、燕尾服をはためかせて歌苗を救ってくれるのに、今日はいつもの格好で、タクトを握る代わりに歌苗の手を取った-。そこまで考えて、歌苗は顔が赤くなり、ムジーク出せばよかったのに、と心の中で八つ当たりした。先日奏助(だと思ったもの)が暴走したときには、モツもベトもムジークで止めようとしていたのに、なんで今日はムジーク出さなかったの?!あの時みたいにコウテイペンギン呼べばよかったじゃない!
 混乱している歌苗の頭からは、ペンギンは空を飛べないことがすっぽりと抜け落ちていた。

 「どうした、小娘?いつもの小言はどうした。」
 気がつくと、ベトは水を飲み終わったようで、コップを渡そうとしていた。受け取ろうとして顔を上げたとき、ベトの瞳が目に入り、心が跳ねた。もう頭は機能を停止し、心だけが、想像だけが暴走する。ずるい、あんなに落ち着いたエメラルドの目なんて。たぶん、ベトから見たら本当に私は「小娘」なのだろう。

 「小娘も早く寝るのだぞ。」
 おまえは未成年なのだからな、お休み、と言ってコップを返し、もう歌苗に背を向けてベトは軽く手を振りながら去って行く。やはりその手にどうしても目が行き、歌苗は思わず自分の手を握りしめた。

 ムジークは消えた。しかし歌苗の手には、まだベトがつなぎ止めてくれた感触が残っている。

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