ショパンの革命、リストのため息
学校の帰りからそのままお使いに出かけた歌苗、ベトを見送り(いったい何時に帰ってくるかしら?どうせコーヒー豆でもめて、疲れるんだろうからお茶でも飲んでくればいいわ)、廊下で生徒に引き留められたシューを容赦なく置き去りにして(学校ではラッパーは封印中なのかしら?)、リストが快い疲労を感じながら音羽館に帰ると、庭にいたモツが「おかえりー!」と明るく手を振ってくれた。どうやら懲りずに蜜柑を巡る攻防をハッシーと繰り広げているようだった。
それには関わりたくないと思いながらも、「おかえり」と言ってくれる人がいる、この音羽館は本当に愛にあふれているわね!でもハッシーとの戦いは遠慮しておくわ。
(そういえばポンコツはどうしたかしら?多分先生に残されて叱られてるのね。ポンコツだし。悪い子ではないんだけどねえ。)
そう考えながら、リストがドアを開けると、もう一人「おかえり」を言ってくれる人がリビングにいた。リストのかけがえのない親友が。
「お帰り。学校でピアノを弾きまくってたんだって?壊さなかった?」
ソファの上で膝を抱え、ゲームを手放さないながらも声を掛けてきたショパンにリストは微笑みかけた。
「あら、今帰ってきたばかりなのにどうして・・・・・・あ、ポンコツが知らせたの?壊さなかったって、ねえ…あの頃のピアノとは違うのよ。ある意味、昔の私がピアノを鍛えてあげたと言えなくない?」
リストはそう言いながら荷物を自分の部屋に置いておこうと階段を上がりかけた。
「物は言い様だね。あの頃は壊しまくっていたくせに」
しかし、その言葉にリストは振り返って立ち止まった。ショパンが当時のことについて食いついてくるのは珍しかったから。
「だからピアノの製造者が私に挑戦してきたのよ。愛の鞭、ってところかしら?」
階段の上から、リストは腰に手を当て、やや勝ち誇って言い放った。
「分かったよ。その愛の鞭に耐えた進化してきたピアノでベトやシューの曲をたっぷり弾いてきたんだってね」
それか。リストは珍しくショパンが会話に積極的な理由が分かった。本当に寂しがり屋さんなんだから。
「あら、焼き餅?チョッちゃんの曲は私にとって宝物。大事に弾いてきたわよ。私が初見で弾けなかったエチュード『革命』。チョッちゃんが私にくれた曲、一番大事に決まってるでしょう?」
「本当に口がうまいね。普通、ベトの交響曲を、ピアノ曲にしようなんて思う?」
これは話が長くなりそうだ。リストはこっそり口角を上げ、部屋に戻るのを止めて、コツコツとヒールを鳴らしながら階下に降りてきた。
「その理由、話してあげるわ。今、子猫ちゃんもポンコツもいないし、二人とも遅くなりそうなのよ。大人同士、たまにはゆっくり飲みながら話しましょ?えーっとグラスはこの間、どこにしまったかしらね・・・・・・。あと何かおつまみがあるといいんだけど…」
リストはショパンが部屋に戻ろうとしないのを目の端で確認しながら、台所に向かった。
やがて、リビングのティンパニーのテーブルには、ワイングラス2つ、赤ワイン、そして歌苗が買っておいて、隠しておいたらしいチョコレートが並べられた。
ごめんね、子猫ちゃん。今度とびきり美味しいの買ってあげるからね。コーヒーにあうチョコレートを。
リストは心の中でわびながらも歌苗がそのチョコレートとコーヒーを誰と楽しむのかを考えて嬉しくなっていた。
「さてと、なんでベトやシューの曲を編曲したかって?それはね、チョッちゃんがきっかけ。私は、あなたがいたからこそ、ピアノ曲にしてみたかったの」
ショパンと向かい合うように座り、視線を上げないショパンにはかまわず徐に語り出したリストだったが、その言葉が意外だったのか、ショパンは視線を上げた。
「?どういうことさ?僕の曲はあまり編曲していないんだろう?」
その言葉にリストは思わず吹き出した。チョッちゃんたら、自分の曲について分かっているのかしら?リストはぐいとワインをあおった。
「あのね、ピアノの詩人と呼ばれた人のピアノ曲を編曲しようと思う?つまりね、私はチョッちゃんからピアノの可能性について学んだのよ。チョッちゃんのピアノ曲から、ピアノの表現力、可能性について気づかされたの」
その言葉を聞いても、ショパンはいまいちぴんと来ていないようだった。僕の曲と、ベト達の曲をピアノに編曲すること、どこが繋がるのだろうか。ショパンはワインには手を出さず、チョコレートを少しつまんだ。
「僕はただ、自分の気持ちを思うがままに曲にしただけだよ。僕の気持ちをどのようにしたらピアノで表現できるか、考えていただけだ」
自信なさげにまた下を向きながらぼそぼそとしゃべるショパンに対し、リストは思わずあきれてワインを自分のグラスになみなみとつぎ、ドンッとワインのボトルをテーブルに置いた。
「ちょっとチョッちゃん!自分のこと分かってる?相変わらず謙遜すぎるわね。チョッちゃんの曲はね、ピアノの曲として完璧なの。一つの世界なの!大体あんな、完成度の高い『革命』や『黒鍵』に『エチュード(練習曲)』なんて謙遜しすぎなのよ。完全なる一つの曲としての世界を作り出してるじゃない」
「僕は美しいものが好きなんだ。練習するための曲だとしても、自分の気持ちが入った曲を作り出したかったんだ。人に求められたものを作ると言うより」
まくし立てるリストにあおられる形で久しぶりに饒舌にしゃべったせいか、ショパンも喉が渇いたらしい。目を伏せながらも一口ワインを飲む。
そこがチョッちゃんの本質だ。とリストはやや落ち着きを取り戻し、ワイングラスを傾けながらもショパンを見ていた。
そうなのだ。チョッちゃんは、人に何か言われて作るのが苦手だった。自分から沸き上がってくるものを大事にしていたのだ。そのことを、当時気づいた人は少なかった。あの頃の人が、この21世紀のチョッちゃんの評価を聞いたらどう思うかしら?
「そうよねえ、例えば、あなたのワルツ、ワルツと言っても相当速いものね。踊るために作られた、ふわっふわっとしたウィンナーワルツとは全然別物よね。あれはあれで華やかな空気を醸し出していて愛があるんだけど…。例えば『子犬のワルツ』なんか、あれじゃ踊ろうとしたら、ドレスに足を取られて転ぶわよ。そんなことしたら、かわいい子猫ちゃん達が大変な事になっちゃうわ」
「本当に今でも女の子が好きなんだね…。二次元アイドルだったらあの曲にあわせて踊れるし」
ショパンにとってもそこは譲れないらしい。ちくりと皮肉を言って、またチョコレートに戻る。
しかしリストに皮肉が効いた様子もなく、逆に嬉しそうな表情をした。
「あらあ、そう来る?チョッちゃんは本当に変わらないわね」
その言葉は、ショパンにとって意外だったらしい。ショパンはまた目を上げてリストを見た。真意を測ろうとするかのように。
「どこが?昔の僕はゲームなんかしなかったよ?」
今も昔も綺麗な、まっすぐな目をしている。そうよ、その目が変わらないのよ!リストは懐かしさも感じながら、ショパンに説明を始めた。
「私が言ってるのは、一つの世界に没頭しているところ。あの頃のあなたは、流行りに流行ったオーケストラではなく、ピアノの世界に閉じこもっていた。でもそれはあなたがピアノの可能性に気づいていたからなのよね。それどころか、ピアノの弾き方、ピアノの曲に革命を起こしたのよ。
前、ジョリーを作り出したときも、その二次元に没頭して、最大限に魅力を引き出したわけだし」
ニコニコと賛辞を投げかけるリストが余りにまぶしかったのか、或いは褒め言葉を受け取ることになれていないのか、ショパンはまた下を向いてしまった。それでも、ワインを飲みながら訥々と語り出す。
「僕はいつも君が羨ましかったよ。手が大きくて、力強くて。強靱なテクニックに支えられていたから、どんなものでも弾けた君が」
「私はチョッちゃんの柔らかさがあこがれだった…今でもチョッちゃんの家に行ったことを覚えてる。本当にピアノとチョッちゃんだけで、溶け合った世界がきらめいていたわ」
リストは追憶にふけりながら、チョコレートをつまむ。ワインの瓶はそろそろ空になろうとしていた。今日はピアノが思い切り弾けて、チョッちゃんと語りながらワインを飲めて、本当にいい日だわ…。
「そういう君だって変わってないよ」
ショパンのその言葉に、今度はリストが目を見開いた。
実は、ショパンが自分をどう見ているのか、リストは聞いたことがない。
「え、私はだって今女よ?それは大きな違いじゃない?女性が私のピアノ聴いて倒れたりしてないわよ?」
軽く冗談のように受け流そうとしながら、リストはどきどきしていた。チョッちゃんはどんなことを語ってくれるのかしら?
「性別の違いなんかたいしたことないさ。人に興味を持って、僕にお節介焼いて、ピアノの魅力を広めようとしてる。本当に変わらないよ」
言葉の表面だけ見れば、褒め言葉には見えないかもしれない。しかしリストには十分だった。人を苦手とするチョッちゃんが、ここまで私を見て、評価してくれたのよ。これ以上嬉しいことがある?じわじわと嬉しさが体に広がり、弾む心で、リストはいいことを思いついた。
「ありがとう。褒め言葉として受け取っておきましょう。ねえ、今度二台のピアノの合奏しない?私たちの頃より、様々なピアノの曲があるみたいよ?」
また一緒にピアノを弾く。そのうきうきした気持ちはショパンにも伝染したようだ。
「いいね。だけど二台ピアノがあるところは限られるから、とりあえずは連弾にしない?」
「それもいいわね!またチョッちゃんとピアノが弾けるなんて!
チョッちゃんがどのように弾いていたか・・・・・・私は実を言うと言葉にできないの。今日もみんなにうまく伝えられなかった。だって悲しい気持ちになってしまうから。だから実際に弾いて、みんなに聞いてもらうのが一番ね」
「僕がどう弾いていたかなんていいさ。だってあの頃も人に聴かせるのは苦手だったし。僕は僕の演奏を別に人に評価してもらいたいわけではないし」
君が分かってくれればいいよ、というショパンの声は届いたかどうか。いずれにしろ、リストはショパンとピアノを弾く、という思いつきに夢中になっていた。
「きっと、あの頃チョッちゃんは生まれてくるのが早すぎたのね。あの頃は今みたいに、録音してみんなに聞いてもらうことなどできなかった。演奏会ではなく、録音で聞いてもらえれば、チョッちゃんの負担も減ったかもしれないわ」
リストは、今になってもそれは残念なことだったと思っている。
「演奏会は本当に怖かったからね。人々が僕が弾くのを待ち構えている顔を見ると、もうそれだけで逃げ出したくなっちゃったんだ」
ショパンも当時のことを思い出したのか、やや顔を引きつらせた。
「だからあのジョリーが頑張っちゃったのね。私もジョリーの気持ちが分かるのよ。チョッちゃんの魅力を伝えたくて、ピアノを弾いていたようなものだから」
「…本当に昔からお節介だね」
あらら、いつものチョッちゃんに戻ってきたかしら?
「あら、昔から一番僕を理解してくれてありがとう!くらいたまには言ってくれない?」
リストはからかうように言って、最後のワインを飲み干す。
「…まあ今度一緒に連弾しようか」
「ええ!曲も今度一緒に選びましょうね!」
ぼそっとつぶやかれたショパンの言葉に、テンションが上がりっぱなしのリストは上機嫌で返事する。
さて、と。そろそろ子猫ちゃんとベトが帰ってくるわね。あの二人、少しは進展したかしらー?
立ち上がり、うきうきしながらワイングラスを片付けるリストを見ながら、ショパンは考えていた。
昔も今も、僕は自分の気持ちを、人の顔を見て告げるのが苦手だ。
だから僕はあの頃、ピアノに向かい続けた。ピアノだと、僕の気持ちが分かってくれる気がしたから。
君が、僕が変わっていないというならそうなんだろう。そして、それを肯定的に受け止めてくれるのが嬉しい。
君は昔から、僕の音楽から僕の声を聞き取っていた。
君も昔から変わらない。だから、今でも僕の音を聞けば、君への感謝が伝わるはずだから。それが僕と君の、本当の会話だよ。
多分もう少ししたらみんなが帰ってくる。リッちゃんはやや酔っ払いのテンションで大家さんに抱きつき、ベトがむっとしながら引き離すだろう。そこにシューやモツ、奏助達も加わって、賑やかな音羽館に戻る。
本当は最初、こんなに大勢と住むのは怖かったんだ。でも親友が僕を巻き込んでくれた。親友がありのままの僕を受け入れてくれるから、ほかのみんなも僕をそのまま受け入れてくれたんだ。
だから。
ありがとう。やっぱり面と向かっては言えなそうだから、ピアノ弾くのを楽しみにしてる。
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