その手を伸ばして
夏休みって、暑いから休むためにあるのに、この宿題の量は何なの。無理、絶対無理。彼女たちの歌が、つい口をついて出る。
でも歌って宿題が片付くわけでもない。やってられない!なら冷たい物が欲しい!
まずは少しでも暑さから逃げたい。そう、できることから。
汗を首にかけたタオルで拭いながら、団扇を片手にパタパタと台所に向かうと、中から珈琲のいい香りがしてきた。
いい香り、心が落ち着く・・・・・・じゃなくて!
慌てて台所に飛び込んだら、想像通り、ベトがいた。想像通りに丁寧にコーヒーを淹れ、想像通りに幸せそうな表情をしながら。私は思わず立ち止まり、悔しいけど、見惚れた。
それは本当に嬉しそうで、無邪気なのに、どこか大人の余裕がある。そんな微笑みってずるいと思いながら。
でも、こうしてはいられない。私は大きく息を吸って、台所に飛び込んだ。
「また公園に行くんですか?あそこは子どもが怖がるからだめです!というか私の水筒返してください!」
「俺が珈琲を飲むのに使ってやっているのに何の文句があるのだ、小娘」
「ギョウナくんグッズ大好きなんです!大事にしているのに、もう!それから公園は禁止です!」
まったく。さっきの幸せそうなベトの表情が、見る間にむっとしていくのに内心やってしまった、と思いながら、そんな内心を悟られたくなくて、とりあえずはと急いでその場を離れた。冷たい飲み物を取りに行ったんじゃないかって?!それがなくても目は覚めたわ。
部屋に戻って、ぽすんとベッドに腰かけて、手中の水筒を見つめる。
大体、「私の」水筒、なのよ?
私のを使うって、つまり、ベトはその、か、か、間接、キス・・・・・・とか考えないのかしら?
最近なんか、ベトを迎えに行くと子ども達に「そのおじさん、お姉ちゃんの彼氏ぃ?」とか「ダンナさんの面倒見てよー!オレたちも迷惑してるんだよー!」とか、からかわれるのよ。全く。
さっきのベトの表情の変化を思い出す。
ベトとはいつも、なんかけんか腰に話している気がする。
それが、自分の気持ちを抑え込む反動だというのは分かっていた。けれど。
見惚れていたはずなのに。
どうしよう。
どうしよう。
水筒をそっと開けると、薄いながらも、コーヒーのいい香りがしてきた。そしてその香りとともに、コーヒーを淹れていたベトの幸せそうな表情を思い出して、私はなぜだか涙が出てきそうになった。
そして、少し、いやかなり躊躇った後、そっとコップにコーヒーを注いで、心を決めて、口をつけた。
私には苦い。また泣きそうだ。
暑い日が続く。私は一人団扇を片手に、ベッドの上に身を投げ出した。そしてお昼ご飯の時の会話を思い出す。
実は最近、日中ベトを見かけない。数日前、あんなに強く言ってしまって、水筒を取り上げたのを謝ろうと思ったのに。タイミングが悪いなとがっかりしながら、今日もシューさんとモツと昼ご飯のテーブルを囲む。チョッちゃんさんは部屋で食べているらしい。
「ベトはいない、と・・・・・・そう言えばリストさんも最近いませんね」と、私はテーブルを見て気がついた。
「ベトと一緒なのかしら」
そう言った瞬間、自分で自分の言った言葉にとらわれてしまった。
もしかして。
二人とも大人同士。
シューさんとモツは「さあねえー、ボク分かんない!」「どうでしょうね・・・・・・あ、こらモーツァルト、私の卵焼きをとるなあっ!」とあまり気に留めていないようだけど、シューさんの態度からは何かを隠しているような気がした。
でも、私は、そんな皆の生活―私生活に踏み込む立場でもない。
大家と店子、というシンプルな関係。そうよ、向こうは独立した大人なの。
お昼ご飯がそうめんで良かった。こんな気分でもつるつる喉を滑っていってくれた。ぼんやりと食べて、ぼんやりと食器を下げて、気がついたら自分の部屋の机の前に座っていた。
これまたぼんやりと、宿題の百人一首を見る。こうやって思いを歌にして届けるなんて、昔の日本人はかなり情熱的だったのね。
もしも、と私は考える。空想するだけなら、どんどん広がっていく。
私が、自分の気持ちを伝えたとして・・・・・・どうなるの?
その前に、どう伝えるというの?
こひぞつもりて 淵となりぬる
こんな風に、形にして自分の心を出せたらいいのに。
そろそろ溢れてしまいそうだ。
そんなことを思い出していたら、また、今音羽館にいない二人のことを考えて、ぐいっと冷たく重いものが胸に渦巻く気がした。いよいよ淵になっている。水泳部だけど、この水流を泳ぎ切れるだろうか。
「うまくいかないね」とベッドの上のギョウナくんに話しかけて、身を持て余して寝返りを打つ。
なんでこんな気分になるんだろう。じっとりと汗ばんで行くのを感じる。
ベトには、本当は、ありがとうって言いたいのに。側にいてくれることで、本当に嬉しいのに。
今や、音羽館で、そのベトの気配すら感じられない。
いてほしい。
高望みはしない。
時々廊下ですれ違ったり、一緒に食卓を囲めればいいから。
汗を拭うのも億劫。耳に入ってくるだけでも気温が上がりそうで、そのくせ平和を象徴しているような蝉の声が、私には酷く遠い世界に思えて、タオルケットをかぶった。
悶々と考えを追っていてもおなかは減る。夕方は近づく。
暑い日差しを考えるとますますこのベッドの上でごろごろしていたい気分になったけれど、夕ご飯のお使いにいかないと。
私はえいやっとエコバッグを持って、誰にも会わぬまま、そっと玄関を出た。
通り道には例の公園がある。
近づくにつれ、期待と諦めが混じった気持ちがごちゃごちゃになってくる。
公園にいるかも、とつい考えてしまうのだ。
通る度につい目をやってしまうけれど、最近、ベトはいない。子ども達が楽しそうに遊んでいるだけ。公園は子ども達の物だから、それは良かったと思うけど。
ならどこに行ってるの?
視線をいつも公園に向けるのをやめたくて、お買い物のメモを探すことにした。
本当なら見なくても分かってる。何を買うかくらい。視線の逃げ場が欲しかっただけ。
しかし、今日は。
公園から視線を感じた。
もしかしたら。
自分への戒めをあっさりかなぐり捨てて、私は公園の方に目をやった。
そこにいたのはギョウナくんだった。
ギョウナくんは何故か一人、こちらを向いて立っていた。子ども達の遊ぶ声をBGMに。
何かを話しかけてくれる訳でもないけれど、なんだか「おいで」と言われているようで、しかもそれが大好きなギョウナくんで、久しぶりに嬉しさに心が跳ねるまま、そちらの方に駆け寄った。
「あっ、ギョウナくん!私ギョウナくんの大ファンなんです!グッズも集めてて、夜はクッション抱きしめて寝てるし!よかったら握手させて・・・・・・あ、手はなかったですね・・・・・・」
嬉しさが先走って、勢い込んで話しかけてみたものの、ギョウナくんと握手できるわけないじゃないー!
自分の頭の悪さに頭を抱えていると、ギョウナくんは「座りましょう」という雰囲気で、ベンチに促してくれた。
ベトがいないのに、公園に一人来ているなんて。
子どもの頃をふっと思い出した。あの頃はお母さんに連れられて、奏助とかと思い切り遊んでたっけ。そんな平和なことを思い出しながら、ついつられて腰かけてしまった。
その頃の私たちと同じくらいの子ども達が「今日は変なおじさんいないから思い切り遊べるねー!」「ギョウナくんでよかったー!」と喋りながら遊ぶ声が聞こえて、私は恥ずかしさで顔が火照った。
ああやっぱり子ども達にベトは変なおじさんだと思われている・・・・・・。おじさんなのね、そうよね、子どもから見たら・・・・・・。
そんなため息をついた私を見て、ギョウナくんは不思議におもっているのかもしれない。ずっとこちらに黙って付き合ってくれる(口がないから当たり前かな)ついつい、胸の内をぽろぽろ打ち明けていた。
「私、成り行きで家の管理を任されていて、いろいろな方が住んでくださっているんですけど、その同居人には困ってばかりで…家の中をローラーシューズで走ったり、火炎放射器で料理して家の中が焦げたり。公園でも噂になるし」
自分で話していてなんだか心許なくなってきた。
私、大人と住んでいるのよね?ギョウナくん(の中の人かな、正確に言えば)だって、そんな大人がいるとは思えないに決まってる。
私の人格が疑われない?これ。ロイド達のいいところも話さなきゃ。
でも、ギョウナくんは驚く様子も見せず、ただ、そこに静かにいてくれた。私の方を向いて。
こんな風に話を聞いてもらうことって、最近なかった気がする。夏休みだから友達にも会えないし。
それに、ベトやモツのいいところも思い出してくると、心がふわあっと舞い上がってきた。
「でも、その人・・・・・・達にもいいところもあるんですよ。うちが差し押さえになって、取り壊されそうになったら、不思議な力で助けてくれて…」
あの時の、クレーンや鉄球を見たときの衝撃と、その後の気の緩みを思い出したら泣けてくる。
「で、助けてくれた後に、『無事か、小娘』って声を掛けてくれた人がいて。もうその声を聞くと、心配されるのなんて久しぶりだし、すごく安心して、思わず泣いてしまいました」
話を聞いてくれるのが嬉しくて、今まで誰にも話したことのない気持ちまでぽろぽろ出てくる。
ものやおもふと ひとのとふまで
そう、あの時から彼の存在は変わった。
心配して駆けつけてくれる人。
いつもはギョーザにばっかり熱中している変な人だと思っていたのに、私を気遣ってくれる人。
きっといつも見ていてくれたんだ。だから、あの時私が号泣する一歩手前だと分かって、声をかけてくれたんだ。
そう思ったときから、特別な存在として心に棲みついていた。
そして、その時の記憶が心を暖めてくれていたはずなのに、いつの間にか時々焦げ付いてチリチリして、苦しくなってくる。
あの時の記憶と、最近ぐるぐる渦巻いていたさみしさと焼き餅がぶり返してきて、一度泣き出したら止まらなくなってきた。
ギョウナくんだからだ。
いつもベッドの上で話しかけているからだ。
だからこんなに話をしちゃうんだ。
なんとなく自分のギョウナくんと重なり、つい手を広げて抱きついた。
溺れてる。恋の淵に溺れてる。沈みそうだから、今しがみつく物がほしいんだ。
大きい。手が回らないけど、なんだか懐かしい。とりあえず、私はすがりつきたかった。
思わずぎゅうぎゅう抱きしめて泣き顔を隠そうとする。ごめんなさい、涙と鼻水つけちゃった。
「出てけ!なんて怒鳴っちゃうこともあるけど、いつも戻ってきてくれる。もしかしたら私の方がその人に甘えているのかもしれないですね」
ここでギョウナくんに懺悔したって、彼には伝わらない。ここで謝るのもずるい、気がした。でも、止まらない。
「今では、その人・・・その人達にずっと住んでもらいたいなと思ってます」
私が今の気持ちを素直にするっと出した途端、信じられないことが起きた。
ギョウナくんがばったーん!と地面に転がってしまった!信じられないこと、とか言ってる場合じゃないわよね、これ。私が押し倒してしまったし、多分手がないからギョウナくん自分で起き上がれないよ、ね?
流石に涙も引っ込み、冷静になった・・・・・・訳ではない。現実に引き戻されたはしたが、どどうしたらいいの??
私の力では引っ張って起き上がらせるのも難しそうだ。
私の額を汗が流れて・・・・・・汗?もしかして、ギョウナくん、ずっとここで日に当たっていたせいで、熱中症になっちゃった?!
これは私の責任だわ。起き上がるのを助ける力はなさそうだけど、少しでも熱を中から逃がした方がいいよね。
そう思って一声かけて、なんとか頭を外したら。
見慣れた白い頭と、くっきりした目鼻立ちの顔が現れて、不意打ちを食らったのと気まずさで私は思わず叫んでしまった。
「やっちゃった・・・・・・」
ありとあらゆる意味で。
まさかギョウナくんがベトだったなんて。
あの後どうしようと思っていたら、スタッフさんが駆けつけてきてくれて、ベトを音羽館まで運んでくれることになった。だからといって私が一人お使いにいくこともできず、勢い音羽館まで戻ることになった。
音羽館に戻ると、シューさんやモツ、チョッちゃんさんに最近見なかったリストさんがそろっていて、皆倒れているベトを見て一様に驚いていたようだった。
なんと、ベトはバイトをしていて、それを皆知っていたという。リストさんがテキパキと説明してくれて、最近二人でいなかったこともそれで分かった。
どうして私にバイトすることを教えてくれなかったのか、とかいろいろ聞きたいこともあるけれど、今はそんな元気も余裕もない。
「ちょっと皆さんにベトをお任せしていいですか?私もちょっと暑くて・・・・・・部屋で休んでます」
そう皆に告げて、私は部屋に引き上げた。
ごろっとベッドに寝っ転がる。恋の淵に溺れて、まさか本人にしがみついていたとは思わなかった。
それはないわ。思わず自分で自分に苦笑してしまう。
夕ご飯の材料を買いそびれたのには気づいていたけれど、ごめんなさい、ちょっとパスさせてください。
起き上がる気力もないまま、ベッドで夕日になっていくのを感じていたら、ふとノックが聞こえた。
「小娘、いるのだろう?俺だ」
そんな。どんな顔をして会えばいいの。せめて一晩は一人で悩んでいたかった。
しかし。
「礼を言うだけだ。開けてくれ」
そう言われたら、仕方がない。体調だけ尋ねて、さっさと帰ってもらおう。
私はゆっくりドアに向かった。
入ってきたベトは気難しい顔をしていた。私は下を向いていたけれど、こっそり上目で確認していた。
「小娘、俺は気を失っていたのを、お前がスタッフの人に指示してここまで運んでくれたらしいな。礼を言う」
ベトがお礼を言うなんて珍しい。わざと私は冷静なことを考えて、返事もできない。
しかし、この沈黙が本当に苦しい。視線が痛い。下を向いてても分かる。
そうこうしているうちに、なんだか自棄になってきた。
もう恋の淵に溺れてるんだから、もがくだけもがいてみよう。
「さっきの・・・全部聞こえてた?」
「ああ」
だったらなんでそんな落ち着いていられるの。
「もう、恥ずかしい!何でギョウナくんになってるの!」私は思わずベッドの上のギョウナくんを投げつけた。しかし当たり前だけど、ベトはあっさりそれを受け止めて、それどころかいよいよこっちに近づく気配がした。
ううん、距離は近づいていないんだけど、なんだかこちらにぐっと踏み込んでくる勢いを、何故か感じた。
「もし、お前が望むなら、忘れてやる」
ベトの、酷く優しい言葉が、いつものように強く、まっすぐ飛んできた。
大人なんだ。普段子どもっぽいと思えても、こういう気遣いしてくれる。
やだな、また惚れちゃうじゃない。
前も勘違いで告白されていないのに振ってしまったけれど、その時も私が恥をかかないようにしてくれた。
「あれが咄嗟に出た愚痴で、本音ではないというなら忘れてやる」
そんなこと言われたらいよいよ深みにはまっちゃうでしょ。
「もし本音だと言うなら…俺も、お前の本音に応えよう。どうする」
歌苗。
動揺ばかりしていた心を、しっかりと留めつけるように名前が聞こえてきて、とうとう顔を上げた。
目に入ったベトの表情は、本気だった。
その本気が、私に勇気を分けてくれた。
ここまで来たら、恋の淵に溺れた溺れたって騒いでないで、もう水面からぐいっと浮かび上がらないと。
「さっきのは・・・単なる愚痴、じゃない。本音、です」
とは言いつつ、混乱してたので、変な敬語になってしまった。
ベトが近寄ってきて、そっと私の手を取ってくれて、釣られて立ち上がる。
「まさかお前が俺たちをそんな風に考えていたとは知らなかったぞ?」
悔しい。これが大人の余裕なのかしら。ベトの声はなんだか楽しそうで、ちょっと恥ずかしくなった。
しかも間近で見るベトの目はキラキラしていて、眩しくて心臓がドキドキしっぱなしだ。
「だって言っていないもん。でも、これからも、よろしくお願いします」
こういうときどう言っていいのか分からなくて、よろしくお願いしますとか言っちゃったけど、いいのかな。ついつい笑ってしまう。
さっきは一方的に抱きついていたけれど、今はベトの手が私に、私の手がベトに回っている。
心臓の音が聞こえる。気配だけでは緊張していたのに、踏み込んだらこんなに幸せに、しかも居心地がいい場所があるなんて知らなかったと思いながら、私は回す手に、更に力を入れた。
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