今日は観客席で
シューベルトが歌苗の学校で、放課後の合唱の指導を終えて帰り支度をしているところに、ふらっとリストが現れた。手にはたくさんの楽譜を抱えている。
「おや、リスト殿。たくさんの楽譜ですがこれからお仕事でしょうか」
シューベルトは仕事前に何故リストが学校に現れたのかよく分からなかった。大家殿に伝言?でもスマホで伝えればいいだろうし。届け物だろうか?
「今日は仕事お休み―!働いているからこそ嬉しい休日なのよ!だからシューにお願いがあって来たの」
リストは上機嫌でウィンクした。
「ね、私のためにピアノ弾いてくれない?」
実は、シューベルトはピアノはそう得意な方ではない。自分で作曲した曲を自分では弾けなかったことがあるくらいだ。あの時は自分で書いた三連符を呪った。
それに引き替え、音羽館にいる他のクラシカロイドは、どうだ。
5歳で目隠しをして弾いていたというモーツァルト、ヴィルトゥーゾとして名を馳せたベートーヴェン、ピアノの詩人のショパン、ピアノの魔術師のリスト……ピアノの達人がそろう音羽館で、シューベルトはピアノに関してはやや引け目を感じていた。
「リスト殿、私でいいのでしょうか?もっと上手な、例えばベートーヴェン先輩などにお願いした方が……」
「ううん、今日はね、シューのピアノが聞きたいの。だから学校にいるのを聞いてやってきたんだから」
そろそろ音羽館にピアノ買ってもいいんだけどね。
リストはぶつぶつつぶやいていたが、「シューのピアノが」の言葉がシューベルトの心の琴線にびんびんと触れた。
あれほど好き勝手やっているクラシカロイドの一人に、名指しで指名されるとは!シューベルトは俄然やる気に満ちてきた。
そして、音羽館において、自分の存在感がなさ過ぎるのではないかとなんとなく不安を抱いていたところに、指名されたというのはどこかシューベルトを安心させるものも、あった。
「他ならぬリスト殿の頼みなら、このシューベルト、精一杯つとめさせていただきます……!そして、何の曲を?」
「これ!」
リストが満面の笑みで差し出した楽譜の題名は「Ave Maria」となっていた。
うん?なんだかこの題名には覚えがあるぞ……というかこれは私の旋律ではないか!というより私の感性が唸っている私の曲!しかし私はこんなに難しくした記憶はない!
「これね、私がシューの曲を編曲したの。ちょっと弾いてみてくれる?」
「いやいや、リスト殿!何ですか、この楽譜?連弾用ですか」
「いやね、シューったら。独奏よ。私は今日弾く方じゃなくて聴く方だから」
「いやいやいや、これ無理です!私が弾くなら手が3本必要です!何か他の曲を!」
「そう……?じゃ私の『愛の夢』は?」
「楽譜を拝見してもいいでしょうか?あ、これならなんとか……但しつかえてもご容赦くださいね」
シューベルトは楽譜をざっと眺め、軽く曲を歌いながら楽譜を読み、徐にピアノの蓋を開けた。
内声が旋律を歌いながら、分散和音が引き立てていく。やがて大きなうねりを見せながら高音部が高らかに歌うが、やがて囁くような流れに導かれて密やかに夢を囁いて終わる「愛の夢」。まるでシューベルトが得意とする歌のようだった。
演奏が終わってシューベルトが立ち上がって恭しく礼をすると、うっとりと聴いていたリストは拍手を送った。
「あー嬉しい!いっつもは客にあれ弾け、これ弾けと言われて、自分の弾きたい曲を思い切り弾くこともなかなかできないしね~!シューの演奏、愛があるわぁ。ありがとう!おまけに極上のシューの鼻歌まで聴けちゃったわ!」
シューベルトは褒められてどぎまぎしたが、好奇心から、どうしてこの曲を持ってきたのか尋ねた。リスト自身の曲なら聴くのも、弾くのも飽きているのではないかと。
シューベルトの問いに、リストは軽く微笑んだ。
「私はね、自分の曲を誰かが、一生懸命弾いてくれるって嬉しいなって思うの。しかもそれをのんびり聴けるなんて。昔みたいに教師だったら、生徒をいろいろ指導する責任もあるけれど、今、この時間の私は自由な観客。それもシューの演奏を独り占めしてる、とびきり贅沢な観客なの」
「なるほど……。では、繰り返しになりますが、どうしてよりによって私なんです?ピアノに長けていると言えばまずベートーヴェン先輩がそうですし、ショパンの凄さは私よりよくご存じのはず。それに悔しいですがモーツァルトだって天才児だった訳なのですから……」
「なーんか、あいつらもなんだかんだ言って優しいから、頼めば弾いてくれただろうけど、その前に一言二言多そうなのよねえ」
リストはやや不満げに口をとがらせた。
「ベトだったら『この俺が弾いてやるのだ、ありがたく聞け』とか皇帝になったつもりで言いそうだし、モツも『えー?僕が弾くのぉ~?じゃ代わりにリッちゃんの職場にいる可愛い女の子を紹介してくれる?』とか条件つけてきそうじゃない。チョッちゃんも『え、今更君の曲?』とか言われそうだし。なんで休みの日にそんな余計な一言聞かなきゃいけないのよ!」
それぞれの場合の様子を具体的に想像したのか、リストは思い切り黒板をドンッとたたいた。
シューベルトは思わず心配した。黒板とリストの手の両方を。
いみじくもピアニストのリスト殿、自分の手を大事になさってください……そして黒板、よくリスト殿の怪力、もとい力強さに耐えた!もし黒板が割れたら下手したら俺の責任になって、大家殿がキレないとも限らないからな。黒板、グッジョブ!
リストはハアハア息を切らせていたが、やがて落ち着いたのか、シューをもう一度見た。
「ねえ、シュー。最後に『Ständchen』弾いてくれない?これならシューの曲の中でも割と弾きやすくしたつもり。歌声が聞こえてくるようにしたのだけど、どうかしら?」
シューベルトの歌曲「セレナード」をリストが編曲した楽譜が差し出された。
シューベルトもいささか自分の曲を弾くのには照れがあったが、先ほどのリストの「シューベルトのピアノを聴きに来た理由」を聴いた以上、リストの信頼に応えたい気持ちもあった。
そして、自分の曲が今でも様々な形になって残っているのは、確かにシューベルトにとっても胸を打つものだった。
「技術は保証できませんが、他ならぬリストの為ならばよろこんで」
やや暗さを漂わせる前奏で始まり、やがて原曲ならソプラノの歌声が聞こえてくるところを、リストは切ないピアノの音で彩り、甘さと切なさが混じり合う音が響く。
シューベルトによる演奏が終わると、歌苗と奏助が音楽室のドアのところで拍手していた。
「シューさん!素敵な演奏でした。音楽のことはよく分からないけれど、伸びやかな歌声のようで」
「シューさんやっぱすげえ!なーんか、ハートに届くっていうか?俺まじリスペクト!あれ、リストさんなんでいるの?」
「今日は仕事休みだから、シューのピアノを聴きに来たのよ、ポンコツ。いつも弾いている側なんだから、たまには人に弾いてもらうのが何よりも贅沢だって事、分からない?ポンコツ?」
「ちょ、リストさん、ポンコツポンコツ言わないでくださいよ……」
「リストさん、今日は仕事お休みなんですね。なら夕ご飯、久しぶりにみんなで食べられますね!」
「そうよー!愛が溢れる家でゆっくり夕ご飯食べられるのも贅沢な時間なのよー!今日はステーキでもいっちゃいましょ、奢るわよ子猫ちゃん!」
「え、マジっすか?」
「ポンコツに奢るなんていってないわよ?」
「ひっでぇ、リストさん!」
シューベルトは、うきうきしたリストの横顔を見ながら、どうやらリスト殿は休日を満喫しているようだと温かい気持ちになり、ピアノの蓋を閉じた。