二人で珈琲を飲みましょう

 
「あれ、私どうしちゃったの?」
 歌苗はソファの上にいる自分に気がつくと、思わず戸惑いの声を上げた。
 確か洗濯をしようとしていたのは覚えているのだが、なぜ今ここで横になっているのだろう?
 身じろぎすると、体の上に何かが掛かっているのに気づいた。考えるまでもなく分かる。これはベトのジャケットとスカーフだ。歌苗は起き上がって膝を抱えた。
 そういえば、さっきベトと立ち話をしていた後、急に眠くなったのだった。その後はどうもはっきりしない。

「気分はどうだ、」
 ベトが音を立てないように入ってきた。
 その呼びかけで、歌苗は今二人きりであることを知った。他の人がいるときは「歌苗」と相変わらずだが、二人きりの時は優しく「歌苗」と呼びかける。それは、恋人としての時間の始まりの合図だった。
 その低く、やや甘い、この「歌苗」という呼びかけを歌苗は気に入っていた。これを聞いているのは自分だけと思うと、ちょっとした満足感が沸き上がる。
「なんだかすごく疲れがとれて、体が軽くなった感じ。長い間寝ちゃったのかな?」
 歌苗は首をかしげた。
「いや、一時間足らずというところか…洗濯物は干しておいたから安心しろ」
「ありがと、ベト」
 おっとりとして、品がよく、それでいて大きな歌苗の微笑みを見ると、歌苗の本来の気質―ゆったりとした育ちの良さが見えるとベトは思っている。自分を含めて、普段歌苗を怒らせることの方が多いのは残念だ。
 ただ、この微笑みは二人きりの時とは限らない。他のクラシカロイドにも振りまくので、みんなに対して優しい奴だと思いながらも、ベトは独占したくなるのだった。

「どうだ、珈琲でも飲まないか。気分がすっきりするぞ」
「え、いいの?洗濯物までお願いしちゃったのに」
「俺が淹れたいのだ。そこで待っていろ」
 ベトは大股で台所に向かった。

 誰かに珈琲を・・・いや珈琲以外でもお茶を淹れてもらうなんて久しぶりだなあと歌苗はぼんやり考えていた。
 普段、みんなの食事を用意するのに精一杯で、なかなかゆっくり座って珈琲を飲むこともない。いや、この間シューさんとモツと飲んだっけ。でもなんだかあれは珈琲豆にこだわるベトにやや当てつけたようにインスタントを飲んだのだった。
 なによ、私より珈琲豆に夢中になっちゃって。
 その時のことを思い出して、歌苗はちょっとむくれた。
 でも、そうやってこだわった結果、今歌苗に極上の一杯を淹れようとしてくれてるのだ。ちゃんと歌苗のお気に入りのカップに注いで。
 ベトのジャケットを掛け直しながら、歌苗はま、いいかと苦笑交じりに考えた。

 やがて、二つのカップに注がれた珈琲を持って、ベトが戻ってきた。ベトはブラック、歌苗はミルクが入ったノンシュガーのカフェオレである。
 この間は勢いでインスタントでもいいと言ったが、やはり豆から淹れた珈琲の香りは格別である。歌苗は珈琲の香りに思わず目をつぶってうっとりした。

「ありがとう、ベト!熱いうちにいただきます」
 歌苗の隣に腰を下ろしたベトに対し、珈琲一杯にもきちんと感謝の言葉を述べるのも、歌苗らしい長所だ。
 珈琲も、一人で飲むよりこうやって最愛の人と飲む方が美味しい。
 恥ずかしくて言えそうもないが、そんなことをベトは考えながら、珈琲をゆっくりすすった。

「そういえば、この間バッハに向かって言っていたことだが」
 ベトはふと歌苗に尋ねた。ずっと気になっていたことがあった。
「子どもの頃はよく、歌苗の祖母が音楽を掛けていたと言ったな」
「ええ、おばあさまは本当に音楽が好きで、この音羽館は音楽に溢れていたわよ?」
「では、なぜ最近は音楽をかけないのだ?」

 やはり、今はムジークとして音楽を作り出す立場として、そして歌苗の事をもっと知りたいと言うのもあって、歌苗の音楽に対する意見を聞いてみたかった。

「おばあさまが亡くなって、お父さんもいなくなってから、なんとなく音楽を聴くのを止めてしまったの」
  一人で音楽を聴いていても寂しいから。一人きりの家に音楽が響くと、寒々しくて、かえって寂しさが増すようで-。

 うつむいた歌苗を見て、ベトはしまったと思った。
「すまない、歌苗。いやなことを思い出させてしまったか?」
 歌苗の顔を下からのぞき込んで、気遣わしげに見るベトの表情が、本当に心配そうで、逆に歌苗の方が泣きそうになってしまった。
「ううん、そんなことない。だって今は一人ではないし。こうやって、ベトや、他のみんながいるから」
 歌苗はベトに優しく笑った。
 
「それでね、最近音楽を掛けないのは、もう十分素敵な音楽を聴かせてもらってるから!」
 歌苗は嬉しそうに声を上げた。
「そりゃ、最初はよく分かんなくて、何が起きているのか分からなかったけど・・・でもみんなのムジークが流れる度に、この音羽館もいい方に変わっていったと思うの」
 そりゃ時々は賑やかすぎることもあるけれど。
 冗談に紛らわせながらも、歌苗は本当にそう思っていた。みんなとも距離が近くなって、お互い遠慮がとれて(クラシカロイド側は最初から遠慮なかったかも?)、そしてみんながここを帰る場所だと思ってくれてるのが嬉しい。
 
「そういえば、ベトの最初のムジークが、一人になってから初めてちゃんと聴いた音楽だったかもしれない」
 ふと、歌苗は思い出したようにつぶやいて、思わずカップを置いてベトの手を取った。
「ん?というのは?」
 突然の行動に驚きながらも、その先が聞きたくて、ベトは促すように返事をした。珈琲を持っていると揺れて緊張がばれてしまいそうなので、細心の注意を払いながらこちらもカップをテーブルに置く。
「つまり、一人になってからは音楽を掛けなかったけど、あの時はベトが勝手にムジーク出したでしょう? でも、あのムジークを聴いたときには寂しくなかった。それどころか、おばあさまにも会えた。
 ベトは、きっと、その時私が本当に願っていた物を見せてくれたのね。この手でタクトを振って」

 ありがとう。
 そう言って微笑み、ベトの肩にそっと寄りかかる歌苗を、ベトは思わずぎゅっと抱え込み、歌苗の顔がベトの胸元に来るようにして、顔を見られないようにした。
「ベト、苦しい」
 歌苗は小声で抗議してみるが、半分は照れ隠しだ。ベトの心臓の音が聞こえて、ベトが本当にそばにいるのを耳でも感じて、安心感と幸福感で一杯になる。ベトのシャツをぎゅっと掴んだ。

「いや、礼を言うのは俺の方だ」
 ベトは恥ずかしいのか、囁くように言った。
「俺はどうして、俺という存在が作られたのか分からなかった。しかし、ここで歌苗と、…そしてみんなと過ごして一つの結論が出た。
 俺は、響吾は歌苗に音楽の楽しさを思い出させたかったのではないかと思っている。
 そのために俺とヴォルフが送り込まれたのではないだろうか。
 多分、歌苗は最初訳が分からなかっただろう。どうして俺たちが来たのか。ま、俺たちもどうしてここへ行けと言われたか分からなかったからな。
 でも、そんな俺たちを受け入れてくれた歌苗に、まずは感謝だ」

 ベトは一旦、歌苗から身を離し、歌苗の目をまっすぐ見てから優しく口づけた。

「そして、クラシカロイドという存在の俺の気持ちを受け入れてくれたことだ。自分でも自分が何か分からないのに、歌苗は丸ごと俺の気持ちを受け止めてくれた。
 俺は…歌苗のおかげで、大事な人の存在、というものを学んだようだ」
 
 目を伏せながら、小声でつぶやくように言う上に、さらに非常に回りくどい言葉だったが、歌苗はそれを聞いて思わずベトの首に手を巻き付けた。

「ううん、ベト。私が本当に嬉しいの。ベトがいてくれて、そして私の事好きになってくれて、・・・ここにいてね」

 歌苗の率直で、飾り気のない言葉に、ベトは思わず歌苗に手を回した。
 二人は、しばらくお互いの存在を確かめ合うように抱き合っていたが、やがてどちらともなく体を離した。
「もう一杯珈琲はどうだ、歌苗。まだみんなも帰るまい」
「そうね。今日くらいはゆっくりしましょう」
 普段忙しい歌苗も、二人の時はついベトを甘やかしてしまう。

 香ばしい珈琲の香りとともに、二人の甘い時間はゆっくり流れていく。

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