自分を客観視するための作品化ーTwitterでは作品にならない。そしてこれで終わり。

Twitterで見かける言葉や文章が、私に全く関係のない言葉や話でも、直截すぎてダメージをくらったことはもう書いてきたけれど(共感性羞恥ならぬ共感性ダメージなのか?)、なぜそうなるのか分からなかった。
でも今日たまたまテレビを見ていて、そのヒントになりそうなことに出会えたので、書いておきたい。そしてTwitterについて書くのはこれで最後にする。

Twitterをやめた事について、つらつらと抽象的なことを書いてきたけれど、もちろん非常に直接的な理由もあって、簡単に言えばある人に「八つ当たり」された事が原因だった。

今思い返しても、あれは全く訳の分からない八つ当たりだったと思う。その人はまずつぶやく形で、私の名前を出さずに私のせいでどれだけ不愉快な思いをしたかをつらつらと述べ、挙げ句にご自分のお気持ちを長文のDMでぶつけてきた。

まず、その人の呟きを見ながらなんとなく「これ、私に対して怒っているんだろうな」とは察してた。「こういう、『私は傷ついたアピール』しながらこっちに不満をぶつけてくるのはいかにもあの人らしいわ」とのんきに思っていたのだが、それに加えてDMまでくれるとは驚いた。

私がやった思い当たったことといえば、ある会場で「○○さんを見かけた」というのを、グループDMで流しただけである。単なる事実を言っただけに過ぎないと思ってる。しかも表で流した訳ではない。

なんでも、私がその情報をグループに流したことで、非常に傷ついたんだという。余りにも訳が分からなくて、そのDMをスクショして読み直し、理由だというグループDMの流れも見直したけれど、やっぱりよく分からなかった。

余談だが、その人は私に傷ついたと感情をぶつけてきた挙げ句に、私に清算すべきお金を返さず、返して欲しいとお願いしたものも再三催促しないと返ってこなかった。半年以上かかった。
もちろんこれで私が感じたのは「言いたいことだけ言って、お金は返さないわけなのね。ふーんご立派ですこと」という嫌みな感情だった。お金は文句ぶつけるのに夢中になって忘れたんだろうと推量し、手切れ金・勉強代だと思うことにした。今更関わる気もないが、その人に対する私の評価を覆す気もない。向こうも関わりたくないでしょう。

で、話は今日見たテレビに飛ぶ。
昼間、余りテレビをつけないけれど、今日は子どもがテストで帰ってきて、お昼ご飯を食べながらカチャカチャチャンネルを回してた。
そうしたら、ちょうど、1時からの長寿トーク番組のお部屋に出会った。

今日のゲストは夏井先生。あの俳句の。
私と子どもは査定番組も熱心に見るので(だって俳句とか水彩画とかすごいんだもん)、ついついお部屋を見続けた。

その時に夏井先生がお話してたのは「悪態俳句」を作ると言うことだった。
生きていると嫌な気持ちになることはある。だけどそれを相手に直接言うと人間関係がこじれる。でも自分の中に嫌な気持ちは残るので、それを俳句にするのだと言うことだった。
この感情も俳句の種になる、俳句にしようとすると、嫌な気持ちになっている自分を客観視できる。しかも誰を相手にして詠んでいるのかわからない、と。

これは非常にいい方法だ、と思うと同時に、この「自分を客観視する」というのが一つの鍵ではないかと思った。お話の中にはでて来なかったと思うけれど、「この感情を17文字でどう表すか」と言葉を探したり推敲する間に、自分の嫌な感情も弱まってくるのではないかと私は勝手に想像する。
多分この方法は俳句だけではなく、短歌でも、詩でも、エッセイでも、その人にあった表現方法でいいんじゃないだろうか。大事なのは「この感情をどう表現したらいいか」と、自分を外から眺めてみること。

そして、作品にしようとするとなると、「この作品は人からどう見られるか」という意識も働く。


思えば、昔から短歌や長歌などで、自分の感情を表現して、伝えようとしてきた歴史がある。和歌を送り合うことになると、自分と同時に相手も考えた言葉選びになるわけだし。

そこでまたTwitterに戻るけれど、Twitterだと、自分を客観視している投稿って、ほとんどなかった気がする。文章のプロは除く・・・・・・と言いつつ、プロでも感情がむき出しなのも多く目にした気がするので、やっぱりTwitterは「感情ダダ漏れ」になりやすいツールなのかもしれない。ブログだと「投稿しますか?」とか一呼吸おけるけれど、Twitterは思ったらすぐそれが一般に発信されてしまう。

多分、私にDMをぶつけてきた人は、私の「○○さんを見かけた」というのが、私の感情ダダ漏れに見えて(まあ何の推敲もしなかった投稿ではある)、それで刺激されて、向こう側も感情が溢れちゃったのかもしれない。

なんだかそこまで考えると、「なぜ私はTwitterで見かける文に勝手に刺激されたのか」が分かった気がして、非常にすっきりしたので、これでTwitterについて書くのも辞めることにする。

つまり私は作品化された文章を読みたいのだ。読む人を考えた文字を読みたいのだ。

嫌なことにあったときに、それを一つの作品にしようというのは非常にいい考えなので、仕事しつつ、メモ帳を立ち上げて何かあったらメモして、この嫌な感情でなにか一つ作品にしたれと思うほど、図太くいこうかなと思います。

もし、作品にできないほど気持ちが追い詰められたら、私は自分のノートやチラシの裏に手書きで書き殴ろうと思う。もしかしたら弱みを見せられない、弱い、意地っ張りな人間かもしれないけれど、私は自分の矜恃として、負の感情をむき出しするのを恥ずかしく思う。それが私のギリギリのプライド。


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