空寒み
暦の上では春がもう近いはずなのに、非常に寒いというのは辛い。真冬ならまだいいけど、もうそろそろ暖かくなるはずだと思いながらも寒いというのはいろいろ気持ちをそがれる、と歌苗は恨めしく思いながら空を見上げた。しかも今日はどんよりと曇っている。これでは家の中でココアでも飲んで温まりたくなるというものだ。さらに言うなら毛布にくるまりたい。
しかし、今家には食事を待ちわびる大の大人がごろごろいる。毎日毎日買い出しをしないと追いつかず、自分も食べるものがないのだ。
さあ、夕飯のお使いに行かなくてはと歌苗は自分を奮い立たせて、コートにマフラー、手袋の完全防備で音羽館を出た。
「行ってらっしゃい、大家殿。」
声を掛けてくれたのはシューベルトだ。シューベルトはお風呂を洗ってくれていた。歌苗は、この寒いのにお風呂を洗うのはちょっとつらいな……と憂鬱になっていたのでありがたく感じながら「いってきます」と返事を返した。
リストは買い物に出かけているようだし、ショパンはいつものように自分の部屋だろう。モーツァルトは、と見ると、庭の池で氷を割って遊んでいるようだった。氷を首元にでも入れられたらかなわないと、歌苗はそーっと家を出ることに成功した。ベートーヴェンはどこにいるのだろう?だがとりあえず今は先を急ぎたい。
食料品、日用品・・・買い物の量は多く、あちこち歩き回ったせいで疲れと寒さが貯まってきた。苦しい家計で無駄遣いはしたくないが、これくらいは必要経費だよねと歌苗はとうとうファストフード店で、ホットのカフェオレを飲みながら一息つくことにした。暖かい店内で、コートやマフラーをとって身軽になっただけで、やや気も緩む。
カフェオレを両手で抱えながら暖かい店内から寒そうな外を眺めていると、音羽館の住人が歩いているのに気づいた。
「買い物か、小娘。」
ベトも歌苗の視線に気づいたのか、声を掛けたわけでもないのに歌苗に気づき、店内に入ってきた。
「こんなところでどうしたのだ。」
それはこっちのセリフだと思いながらも、歌苗は足元の買い物袋を指さした。
「買い出しですよ。今日の夕ご飯とか、トイレットペーパーとか。今はちょっと休憩。」
そうやってふふっと笑う歌苗をベトはじっと見つめた。
「ベトもコーヒー飲まない?寒かったでしょ。」
「どうした、今日は。金はいいのか。」
「帰りに荷物持つの手伝ってくれる?それでいいことにしましょ。ただコーヒーの味に文句をつけないでね。」
歌苗はさっさと席を立ってコーヒーを買いに向かった。
「すまない。やはり暖かいな。俺は冷えていたのか?」
「そうでしょ。大体なんでこんな寒いのに外にいたの?」
「館にいてもすることないしな。散歩していたのだ。」
館のみんなに、歌苗を手伝ってこいと追い出されたのだ、とは告げない。歌苗は両手も温めるようにカップを抱え、ベトはブラックコーヒーを口にする。
しばらく他愛のないやりとりをしていたが、ふと外を見た歌苗は「あ」と小さく声を上げた。
粉雪が降っている。暖かい店内から見ても、雪が降る景色は寒さが増したように見えた。
「雪か。確かに降りそうな空模様だったが。」
「こんな粉雪ならあまり濡れたりはしないだろうけど、そろそろ帰った方がいいかな。」
歌苗が立ち上がると、ベトは大股でコップを片付けに行き、歌苗も身の回りのものをまとめた。
そしてコートをとろうとしたら、いつの間にか椅子の上のコートはベトの手にあったのだ。
「ほら。着ろ。」
言葉だけ聞くと非常にぶっきらぼうだが、コートは歌苗が袖を通すだけでいいようにベトの両手で広げられている。
「あ、ありがとう・・・。」といいながら背を向けて、両手を軽く通すと、ぐっと一気にコートが肩のラインであわされた。すとんと体にコートがなじむ感触は初めてのものだ。襟の縁をぐっと掴んでいるベトの手が歌苗の鎖骨のあたりにあるのが見えた。
驚きのあまり振り向くと、ベトとの近さに今度は思わず息が止まった。こんなに至近距離で見下ろされるなんて。
子どもの頃、出かけるときにはおばあさまに着させてもらったコート。あの時は、言葉にはできないながらもおばあさまの愛情と気遣いに包み込まれていたのを感じていた。
しかし、今感じるぬくもりは、それとは違う。後ろからすっとスマートに着せかけてくれた手は、明らかに大きい男性の手だし、子どもの頃におばあさまはかがみ込んでボタンを留めてくれたものだが、ベトは明らかに一人の女性としてコートを着せかけてくれていた。しかも歌苗のことを全て分かっているかのように、スマートに、一瞬で。
袖が突っかかることもなく、洋服とコートの間にふんわりと空気も挟まれているようで、軽い。肩に掛かる重みもない。歌苗は自分で着るときよりも、はるかに着心地がいいことに気がついた。
まったく、何なのよ。
自分の服は、いつも同じで無造作に着ているのに、人に着せるのがうまいなんてなんかずるいーそこまで考えて、ベトは実はおしゃれなんじゃないかと歌苗は思い当たった。
大体、成人男性がスカーフ、それも赤いスカーフを巻くことを思いつくかしら?しかも似合っているし。歌苗は学校の先生や自分の父親がさらっとスカーフを巻いているのを想像してみようとしたが、あまりうまくいかなかった。特に父親は、実験器具を拭くのに使ってしまいそうな気がする。やっぱりベトは西洋人(人なのかどうなのかはさておき)だから、日本人より洋服に慣れているのかしら?それともエスコートするのが当たり前なのかしら?
今まで考えてもみなかった、ベトの紳士としての一面に、歌苗はひどくうろたえ、赤面した。
「ついでにこれも被っておけ。」
そう言いながらベトは今まさに歌苗が考えを巡らせていた赤いスカーフをとって、歌苗の頭に巻こうとする。
「いりません!そしたらベトが寒いでしょ!」
「俺は平気だ。いくら粉雪でも小娘が濡れるだろう。」
「このコートフードついているし!それにその赤いスカーフはベトがしていないと!私丁度今、ベトにその赤いスカーフ似合うなと思っていたんだから!ベトのスカーフ姿、好きなの!」
「……!」
それこそスカーフみたいに赤い顔になったベトを見て、歌苗も自分が結構凄いことを口走ってしまったことに気づき、うっと詰まってしまった。
「……帰ろう。みなが腹を空かせて待っている。」
「みなって言うより、お腹空かせているのはベトでしょ。」
結局スカーフはベトの首元に戻り、いつものような軽口をたたきながらも、恥ずかしくて、お互い視線は伏せたままだ。伏せていても、ベトがさっさと荷物を持って行く手は、歌苗の視界にちゃんと入っている。二人は粉雪がちらつく中を家に向かって歩き出した。
二人で歩く道は、ベトもなぜか静かだ。歌苗はいぶかしく思いながらも、敢えてベトに聞こうとはしなかった。
帰れば騒がしく、賑やかで明るい空間が待っている。それもこの静かで暖かな時間はまだしばらく、二人だけのものだ。歌苗は、今は静かにこの時間とぬくもりを感じていようと思った。
家を出たときは、早く暖かい季節が来て欲しいと思っていたけれど、ベトがコートを着せかけてくれて、隣を歩いてくれるなら寒い季節も温かい気持ちに包まれる。粉雪もまるで二人に降り注ぐ花のように思える。
歌苗は、ベトの暖かさを感じようとするかのように自分を抱きしめた。
空寒み 花にまがへて散る雪に 少し春ある心地こそすれ
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