ピンクのお財布はお家賃の夢を見るか
「Be my Valentineくらい言ってみなさいよ!」
「ねー歌苗、このベー?・マイ?バレンチン?ってなに言ってるの?」
出かけようとしていた歌苗は奏助からパッド君を渡され、そこに書かれているメッセージと一瞬奏助が言っていることが結びつかなかった。
「ちょっと奏助、もう一回言ってみて」
「お、やっぱり歌苗も分かんない?日本語で返事くれないかな、バダきゅん!可愛いのにそーこーが勿体ない!バレンタインにチョコ、くれる?ってメールしたんだけどこんな訳の分からない英語まじりで返信するんだもんなー」
「そうじゃなくてー!」
ショックから回復した歌苗は大声を上げた。
「バレンタインの話をしているのに、バレンチンって何を言っているの、奏助。これは、ビー・マイ・バレンタインって読むの!」
「は?意味分かんね」
「私の特別な人になって、という意味だけど」
「ま、解読できないという時点で、奏助がチョコレートをもらえる可能性はゼロと言っていいでしょう」
歌苗が言いたいことをパッド君が引き取ってくれた。
「なんで、男からそんなこと言うわけ?だって女の子からチョコをもらう日でしょ?」
「だから、奏助は駄目なのです」
パッド君は(機械だけに)機械的にダメ出しをした。
「欧米では、男性からも愛を告げるのも一般的なのですよ。奏助にはその準備ができていますか?」
「エー!だって俺、日本人だし!ここ日本だし!無理だよー!バダきゅーん!」
「諦めた方がいいわよ、奏助」
ひっくり返って絶望している奏助はパッド君に任せることにして、「じゃ私、海月と出かけるから」と告げて音羽館を後にした。
しかし、と歌苗は歩きながらため息をついた。
確かにそんなこと言える日本人いる?言葉で告白するのって。
そう言えないから、チョコレートがあるのかな。
なかなか「私の大事な人になってください」なんて言えないものね。
チョコレートが、言葉の代わりなのかな。と思いつつ歌苗は海月との約束に間に合うようと足を速めた。
「あー!どのチョコも綺麗で美味しそう!もう迷っちゃううう」
眼鏡の奥からでも分かる、キラキラと目を輝かせた海月はショウウィンドウに魅入られたようにふらふらと引きつけられていった。この時期特有の、デパ地下の熱気にあてられたのもあるかもしれない。明日が本番の日だからか、みんなチョコレートを買おうと必死になっている。そして店員もここぞとばかりに売り込みをかけている。
普段は冷静でも、やっぱりテンション上がっているな、海月。
親友のうきうきした様子を微笑ましく思っていた歌苗だが、次の海月の台詞は聞き捨てならなかった。
「ワー君だったら、どんなチョコが好きかな?お姉さん」
「お姉さんですってええ?!海月にお姉さんと呼ばれる覚えは、あ・り・ま・せ・んー!」
「いいじゃないの、歌苗。ね、やっぱり革命っぽいチョコがいいかな?」
「革命は、多分、ワー君は忘れたいと思うよ・・・・・海月からもらえるんならどんなのでもいいんじゃない?」
「やだー!照れるじゃない歌苗!」
更に声のトーンが一オクターブ上がって海月は「明日は私にとって革命の日なのよ」などと言いながら、歌苗を置いてチョコ探しの旅へ突入していった。
置いて行かれた歌苗は、ふと近くのショウウインドウのチョコレートに目を留めた。
綺麗なチョコ。素敵。こんなに綺麗だと食べるのが勿体ないくらい・・・・・・えええ?!値段、ゼロが一個多くない?
デパートでチョコレートを買うという発想がなかった歌苗の前に並ぶ数字で、歌苗は他の人とは違う興奮を感じていた。
信じられない!
これを買うだけで何日分の食費かしら、とぶつぶつとウワゴトのようにつぶやいていた歌苗の元に、頬を上気させた海月が戻ってきて、歌苗はほっとした。
「海月、お帰り。いいのあった?」
「うん!」海月はこれ、と言う風に歌苗の前に紙袋をぶら下げて見せて、同時に歌苗にそれよりは小ぶりの袋を渡してきた。
「ちょっとはやいけど、友チョコ」
「え、いいよ、悪いよ海月。こんな高級そうなの」
「いいからいいから。一緒にお買い物できて嬉しかったし、ね?」
今日は私の革命記念日!と舞い上がっている海月に押し切られる形で歌苗は小さなチョコレートの箱を受け取り、「じゃ、お返しを期待しててね」とにっこりした。
結局歌苗自身はチョコは買わず、帰りにスーパーで夕ご飯の材料を買い、音羽館に着くと台所に直行した。
買ってきたものを冷蔵庫にしまい終えて、改めて海月のくれた箱をそっと開ける。中には宝石のように艶やかで、美味しそうなチョコレート、それも真っ赤なハートのチョコレートが二粒入っていた。その赤い色を見ると、歌苗はちょっと心臓がぎゅっと嬉しく締め付けられるような感じになる。
しかし、このチョコレート一粒400円ですって?鶏肉なら250gは買えるわ。
嬉しさと現実がごっちゃになった思いを抱えて口に入れた美しいチョコレートは、外側がカリッとしていて、でも内側からは微かに洋酒の香りもするクリーム状の濃厚なチョコが、滑らかに舌に流れ込んできて、思わず歌苗は目を瞑ってうっとりとし、我知らず言葉が出ていた。
「コーヒーにはこんなチョコが合うのかな」
言ってしまった途端自分でもびっくりして、咄嗟に目を開けて辺りを見回したけれど、とりあえず誰もいなくてほっとした。
「もう、子猫ちゃんたら、現実を見過ぎ」
若いうちからお家賃、食費って。
チョコレートの値段から現実に引き戻され、お財布の中からレシートを広げて、顰め面をしていた歌苗のところに、ワインをしまおうとしたリストが台所にやってきた。
「お財布の中ばかり覗き込んでも、お金は増えないわよ」
「リストさん、そりゃそうですけど、って現実を突きつけているのはリストさんじゃないですか」
「そんなに眉間にしわを寄せていたら、本当にしわがついちゃうわよ」
「って、聞いてます?そりゃ私だって、悩まないで済むなら悩みたくないですよ、リストさん。でも夕ご飯のこととか考えると」
「こーんなに若くて、お肌もピチピチなんだから、肌をもっと輝かせましょう?楽しく夢見るようににっこりしましょ!現実よりも夢!」
「昨晩私が見た夢を聞きたいですか?リストさん?それはねー!ベトとモツとシューさんがお家賃を払ってくれる夢だったんですよ!」
「あらまあ、そんな逆夢見るなんて、ついてないわね、子猫ちゃん」
「逆夢って言い切らないでください」
歌苗はがっくりした。
「どうせ見るなら、楽しい夢、そう、甘い夢、つまりは愛の夢!」
あら、私の曲にもあったわねとリストはいよいよ一人でテンションが上がっていく。
「なに、一人でぼけと突っ込みをやってるんですか、リストさん」
ついていけないと歌苗はため息をついたが、リストは意に介さず、歌苗にぐいっと頬を寄せて、耳元で囁いた。
「家賃の夢では自力ではかなえられなくても、愛の夢は叶えられるかもよ?」
歌苗はぎょっとしてリストの方に顔を向けると、含み笑いを湛えたリストの目がそれこそ目と鼻の先にあった。
反射的にのけぞるように体を引いた歌苗に、リストは顔をまた寄せた。
「コーヒーには、というより子猫ちゃんからもらえるなら、ベトはなんだってコーヒーと美味しくいただくと思うけれど?」
「な、な、何のことを言っているんですか」
「ま、どうせあいつに高級なのをあげても価値が分からないから、チョコレートブラウニーでも焼いておいたら?」
夢を語っていた割には、やたら具体的なアドバイスを残して、リストは「夕ご飯前に走ってくるわ」と出かけて行ってしまった。
残された歌苗は夕ご飯どころではなくなってしまった。
「なんでリストさんに分かっちゃったんだろう。もしかしてさっきのを聞かれていた?」
コーヒーって言ったら、ベトしかいないものね。迂闊だったと歌苗はちょっと後悔したけれど、どこかで、少しほっとしている自分もいた。
一人で抱え込んでいた思いを、誰かが少し分かってくれるのは、ちょっと嬉しい。
もう一つ残っていた赤いハートのチョコレートを、改めて口に入れる。
さっき思わず本音が口をついて出たように、甘いものは、どこか心のねじを緩めてくれるのかもしれなった。
確かに、ブラウニーを焼くっていいかも。
海月の本気度を見たせいか、チョコレートで気持ちが柔らかくなったせいか、或いはリストへの信頼感が後押しをしたのか、勢いでブラウニーの作り方を調べたら、材料は身近なものでできそうだった。
「うちに今、ココアとクルミがないからそれだけ買ってくれば、型抜きやデコレーションもいらない、か」
これなら作れそうだなと歌苗は頭の中で段取りを再現してみた。
「Be my Valentineなんて言えないけれど」
さー!ケーキ焼いたからみんなで食べましょー!は言えるわよね、私。
一人納得して、うんうんと頷いていたが、ふと、思いとどまった。
全然、「ベトのために」という特別感がない!
「これじゃ、いつものおやつタイムと変わらない・・・・・・どうすればいいの?」
アイシングでメッセージを書いてみる?Be my Valentineって?
「むり。ぜったい、むり」
「何を唸っているのだ、小娘」
いきなり背後から聞こえてきた低音に歌苗はびっくりして勢いよく振り返った。
「あー、ちょっと、チョコ、じゃない、おやつの事を考えていて」
「ほう、旨そうなものを見ているな」
ベトは歌苗の持っているスマートフォンに目を落とした。
「あ、これ?ブラウニーって言う、ケーキみたいなものらしいけれど」
「ふむ。濃厚で味の個性が強そうではないか。コーヒーに合いそうだな」
「コーヒーに合う?そうかな」
「この、重厚そうな外見からして、俺のコーヒーに引けを取らぬ強さを持ち、バランスがとれると思うのだが」
「つまり、食べたいのね」
ベトは歌苗をじっと見た。
そして歌苗の視線を捕らえたかと思うと、そのまま歌苗の目を見続けた。
「しょ、しょうがないわね・・・・・・明日のおやつに焼いてあげるわ、特別に」
心の中で「ベトに頼まれたから、特別なのよ」と付け加えたけれど、ベトに聞こえなければ、いくらでも言える。
「そうか、小娘!」
ベトは視線を柔らかくして、破顔した。実は、歌苗は、ベトの目力より、この柔らかい視線と、歓喜に満ちた笑顔に弱い。
「流石、俺のバレンタイン!」
「本当に、特別よ・・・・・・え?」
ベトは今、何を口走ったの?
耳を疑ってベトを改めて見ると、ベトは口を押さえて顔をピンク色に染め上げていた。
「い、いや、つい、少年にバレンタインの事を聞かれてそれが頭に残っていて、だな」
「じゃ、ベトは、明日、バレンタインデーだって知っているんだ」
二人の間に沈黙が流れて、お互いに視線を明後日の方向に飛ばしていたまま固まっていたが、なんとか口火を切ったのはベトの方だった。
「で、では、明日、俺が特別に、小娘にコーヒーを淹れてやろう」
どもりながらベトは歌苗に告げたが、歌苗もいっぱいいっぱいで、
「じゃ、私はブラウニーの材料を揃えておくから」
と、言うのがやっとだった。
「では、明日、ブラウニーが焼けそうになったら呼んでくれ」
ベトはそう言うと、逃げるように台所から去ってしまった。
歌苗はしばらく呆然としていて、胸を手で押さえていたが、ふと気付いた。
「ベト、さっき、『特別に』って言ってくれた?」
自分に都合のいい想像はやめておこうと思いつつも、さっきの表情ややりとりから考えると、それこそベトの言葉は特別な意味を持っているように頭の中でリフレインして、歌苗はそれを噛みしめていた。
「とりあえず、材料がないとね」
歌苗は緩む頬を、音羽館の誰にも見られたくなくて、今のうちにココアやクルミを買ってきてしまおうと、心臓がバクバクするのをなんとかなだめて、もう一度お財布を取り上げた。
お財布には、明日への夢が詰まっている。
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