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小海線に乗る鉄道の一人旅


「旅に出る」

この言葉は、家出に近いと思う。どこか、目的もなく意味もなくぷらっと出かける感じがする。

何の準備も計画もせず、ぷらっと旅に出ると、事前情報がないだけに、がっかりすることが少なく、むしろ意外な出会いがある。そして、帰ってきたときの自分は、出発したときの自分と比べて一皮むけていたりするから、ある意味、家出をして別人になって帰ってきたような感じだ。

それと比べて、ある場所に夢と理想をもって、綿密に計画して旅行に行ったのに、それ通りにならなかったら、嫌な気持ちになるだろう。旅と旅行の違いはそこにある。無目的か、目的があるかどうか。

小海線に乗るための鈍行鉄道の旅を計画

以前、小海線沿線をドライブしたときに、鉄道に乗りたい!という気持ちに火が付き、「小海線に乗る」という鉄道の旅を計画。千葉県から出発して、ひたすら鈍行で、東京に出て、高尾に行き、小淵沢から小海線に乗り、終点の小諸を目指す旅。トータルで7時間ほどかかる。当日は軽井沢に近い御代田町に宿泊し、軽井沢をすこし観光して、また小諸から同じ経路で千葉に戻る。

ほとんどが移動時間の旅。わたしはこういう旅が好きだ。特急や新幹線が用意されている経路で、わざわざ鈍行を使うのは、青春18切符ぐらいのものかもしれない。一方で、新幹線や特急が停まる駅は主要駅なので、主要なものが揃っている。比べて、主要でないその他のたくさんの駅は、ショートカットされる。なので新幹線であれば東京から長野までは1時間半ほどで行ける。この5時間半で端折るものはなんだろうと考えた。

旅先で楽しむ時間を増やすために削られた時間。目的は移動先であって、道中にはない。そういう考え方だと思う。しかし、旅は、すべての道のりが旅なのであって、目的地に滞在することが旅なのではない。ここも、目的がはっきりしている旅行とは違うところ。

いざ出発!

千葉から東京までは通勤で使っているので、何の変哲もない道中。平日と比べて人がすくないぐらいか。御茶ノ水から乗り換えて高尾へ。ここから乗り換えて小淵沢に行かなければならないが、遅延しており次の便に間に合いそうにない。遅れると、今日の予定が大きく狂う。ハラハラしながら乗っていると、次の乗り継ぎの電車は、遅延した電車を待ってくれていたので、無事乗り換えることができた。高尾から小淵沢は、霧の中の田園風景がメイン。甲府に近づくにつれだんだん栄えてきた。取り立てておもしろいことはないので、電車に揺られてひたすら普段読めない難しい本を読む。

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小海線に乗車!

ついに小淵沢につき、高揚する気持ちを抑え、小海線に乗り換える。電車は二両で小さく、向かい合わせの四人掛けと二人掛けの構成。二人掛けだから、要するに一人だけの小さな席。ここに陣取り、窓から景色がよく見える席に座る。鉄道ファンや家族連れ、登山客が乗車しており、みんな小海線に何らかの興味があるのではないかという人ばかり。小淵沢駅から、小海線は始まる。美しい青々とした田んぼが広がる田園風景から始まり、別荘が並ぶ山の中を走り抜けていく。その割に前半はほとんどトンネルがない。この山のなかに誰がどうやって鉄道を敷いたのだろう。そういうことに思いを馳せる。

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リゾート地の清里高原では多くの登山客や家族連れが下車して、電車は少し人が減った。野辺山駅付近では、高原野菜とお米が栽培されていた。ビニールで保護されている野菜たちの畑、緑一色の田んぼ、茶色一色の畑。いろんな畑のコントラストを背景に、一本に伸びる農道を、土煙を上げて走る軽トラック。雄大な田園風景がそこにはあった。佐久広瀬では、川の流れと鉄道の方向が同じで、澄んだ清流を間近に見ながら、森の中を抜けていく。ここはけっこうな秘境なのだろう。立て続けにトンネルが続く。レトロでかわいい駅舎の佐久海ノ口を抜けたら、民家が増え、街が栄えて、松原湖、小海と過ぎていき、小諸へ一直線。正直なところ、佐久海ノ口までの絶景が目に焼き付いて、小海から小諸までの穏やかな田園風景は、ふつうに見えた。それぐらい小淵沢から佐久海ノ口までの絶景は、素晴らしい。

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終点小諸駅に到着

この絶景が、移動時間として端折られるのは実に惜しいと思う。通過していく無数の駅を、いまここを通っているのか、と感じることによって、日本の広さを知る。新幹線では得られない体験だ。

小諸駅についたとき、御茶ノ水からSUICAで入場してから出場していないので、精算しようとして、自動精算機を探した。しかし、自動精算機もなければ、SUICAをタッチする機械もない。精算口で駅員さんに相談したら、ここでは精算できないので、証明書をだして来てそこに今日の日付のスタンプを押して、それで出場させてくれた。結構な金額を精算できていないのだが、それでも疑いもせず出場させてくれる優しさ。そのとき、精算できるほどの現金は持っていたが、なけなしのお金だったので、ありがたく改札を出て、銀行を探す。車の往来がある道で明らかに横断歩道は赤で、車の直進が青信号なのに、一台車が止まった。気のせいだろうと思って、そのまま見過ごしていると、また一台車が止まった。歩行者用の信号は赤なのに。これは気のせいではない、と一礼してそこを渡った。

長野県は善意に溢れている。長野県のすきなところの一つだ。東京でシステム関係の仕事をしているが、常に悪意で溢れている。人は間違いをおかすから、そうならない設計にするとか、人と端末を監視対象に置く設計とか、その他諸々。そこに善意はない。そういう仕事をしている自分にとって、この善意は驚きであり、心に染み入る。

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宿泊先の御代田駅・明治屋旅館にて

この日は御代田町の明治屋旅館に宿泊した。現在コロナの感染者が増えていることもあり、感染対策が徹底している。どこからきたのかのチェック表と、健康チェックと検温と、アルコール消毒。お客さんは、自分の他に4組ほど。ずっと切れ目のない鉄道の旅で、かつローカル線だったので自動販売機以外はなく、朝から何も食べていない。夕食で出された佐久御膳に舌鼓を打つ。佐久名物の鯉の甘露煮と、はやの素揚げ。とれたてのはやを生きたまま背びれを切りそのまま揚げるので骨までサクサク。そこで働く女将さんのような女性が給仕をしている。茶碗蒸しがあつすぎて、うまく持てず、給仕できないようだ。

「ちょっとこれ、熱すぎてね、おほほ」

と言いながら、ポン、ポン、ポンと茶碗蒸しをテーブルの上でスライドさせて、茶碗蒸しを運んだ。そんな茶碗蒸しの運ばれ方をしたことがなかったので、すこし驚いたがおもしろかった。夕食はごはんとそばが選べたが、わたしはせっかく信州にきているので、名物のそばを頼んでいた。そばはいつですか?と聞くと、

「そうね、食事後なので、そこにある電話で”そばください”って連絡してください!茹でたてのそばと果物をお持ちします」

旅館に泊まっているのに、そばは電話で頼むのか。そんなシチュエーション初めてなので、思わず、「わかりました。電話します」と答えた。

こういうのもとても好きだ。普通のホテルに行くと、普通にマニュアル通り、お客様として給仕されるので、あまりお客様である自覚がない自分は、いちいち給仕された何かを覚えていることはない。だけど独特な対応、ふつうに人として対応されたときに、そのときにしかないやりとりがそこにはあると思う。サービスは嫌いだが、コミュニケーションは面白い。

結局もうひとりの宿泊客がやってきて、その人の給仕をしていたので、そばは口頭で頼んだので電話するチャンスはなかった。

佐久御膳は昼飯を抜いた状態でもたらふくな量だったので、大満足で、その日は猛暑日とテレビのニュースで言っていたが、窓を開ければ涼しかったので、窓を開けて爆睡。

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軽井沢、レンタサイクルの旅

翌日は御代田から軽井沢へ。軽井沢で何をするか決めていなかったが、長野で有名な観光地なので、一度は行ってみたかった。軽井沢の駅を降りてすぐのところで、チンピラ風のお兄さんが手を叩いて気合をいれている。何かの店でもあるのかな?とおもってお兄さんの動きをみていると、レンタサイクルの店へ入っていった。自転車かぁ。自転車で軽井沢をめぐるのもいいなとおもってレンタル申し込み。ついでに荷物も預かってもらった。強いて言えば石の教会にいってみたかったので、地図をもらい、そこを目指す。道中、「軽井沢書店」という本屋を見つけ、気になったので入った。軽井沢にあるだけに、軽井沢関連の書籍がたくさんあった。あとでしらべたところ、2018年に軽井沢にできた街の本屋らしい。時間が限られているので、少し滞在して、また自転車に乗る。

離山公園で3つの出会い

次にまた気になる場所を発見した。離山というおまんじゅうのような形をした山だ。小海線からも見える山で、かわいらしいので気に入っている。おまんじゅうのような形のわりに、標高1250メートルもあるらしい。もともとが標高が高いので、山もなだらかなのに標高が高い。これは長野の特徴だ。ここ一帯は公園になっていた。離山公園の中には、旧近衛文麿別荘と書いてある立て札が。近衛文麿の別荘がここにあったのか?と思い、自転車を駐めてしばらく公園内を歩く。別荘っぽい古い日本家屋があったので、なかに入ってみると、それは旧近衛文麿別荘ではなく、旧雨宮亭という、文化遺産だった。

女流書家・稲垣黄鶴の人生を知る

この日は無料で、稲垣黄鶴という、長野県軽井沢町追分に生まれた、女流書家の展示会のため公開されていたので、興味を感じて中に入った。稲垣黄鶴は、103歳まで生きたのだそうだ(2006年没)。大正天皇に書道を教えたり、才覚を発揮し、中国に渡り、書道を学び、日中友好の架け橋として尽力していたが、戦争になってしまい、終戦のときには中国で捕まりそうになったが、中国人兵士の前で陶淵明の詩を書き上げて、禁錮3ヶ月に免れたらしい。壮絶な人生を歩んだ人なんだなぁと思いながら展示を見ていると、詩を書いている作品があった。とても素敵な詩だったので、書き留めておこうとおもったが、詩は途中で終わっている。作品はケースの中に入っているので、続きがわからない。めくれば続きが読めそうだ。この屋敷の案内人に、出してもらえないか相談したら、

「わ、わたしも今日応援できてるもんで、ここのもんじゃないんですよ。学芸員が鍵もってて、鍵ももってないんですよね」と言った。

応援できているのか。この展示会は無料で閲覧できる。ボランティアがいないと成り立たないのだろう。郷土の偉人の展示会を無料でボランティアで啓蒙しようとする、その長野県の姿勢がすばらしいな、と思った。

仏教詩人・坂村真民の詩に出逢う

内容確認は諦めて、あとでネットで調べたところ、仏教詩人の坂村真民という人が作った詩を、稲垣黃鶴は書いていたのだ。

生涯の旅路
私は私の一生涯の旅路において「今日」というこの道を
再び通ることはない二度と通らぬ「今日」というこの道
どうしてうかうか通ってならう
笑って通ろう歌って過ごそう二度と通らぬ「今日」というこの道
嘲笑されてそこで賢くなるのだよ
叱られてそこで反省するのだよ
叩かれてそこで強くなるのだよ
一輪の花でさえ風雨をしのいでこそ美しい
咲いて薫るのだ侮辱されても笑ってうけ流せ
けたをされても歯を食いしばって忍べ苦しいだろう
くやしいだらうしかし君、
※作品よりメモ書きで転記

ここで終わっていた。続きは、また調べてみようと思う。

軽井沢とゆかりの深い雨宮敬次郎と今村今朝蔵

また、雨宮敬次郎という実業家について、紹介があった。この雨宮亭の主人だ。山梨県出身の企業家で、いまの日本製粉の全身をつくった人だ。鉄道会社もいくつも起業し、鉄道王と形容されている。軽井沢に植林事業を起こして、いまの軽井沢の前身をつくった。彼が手掛けた場所は「雨宮新田」という地名で、いまも残っている。

そこから少し進むと洋館があり、そこが旧近衛文麿別荘で、市村記念館だった。その建物は、明治から大正期にかけて、アメリカ式の椅子に座る生活ができる家を日本で初めて手掛けた、あめりか屋という建設会社が手掛けた別荘で、軽井沢にも出張所があり、その別荘を近衛文麿が購入して時折利用していたが、市川今朝蔵が購入したものが、移設されていまこの離山公園内に記念館としてあるらしい。

市川今朝蔵は雨宮敬次郎の甥で、政治学者。ここでよく研究をしていたらしい。当時の生活がほとんど残された小洒落た内装だった。外の池が美しく、ここを訪れた夫婦が池の前でベンチに座って談笑している。絵になりそうな美しい風景だった。

何も知らずただ自転車で通り過ぎただけで、気にもとめなければ出会えなかった軽井沢の歴史の数々。こういう発見があるので、目的も決めずなんとなく歩むのがとても好きだ。

本当の目的地・石の教会を目指す

離山公園を出て、本当の目的地へ、自転車を走らせる。だんだん上り坂になってきて、借りた自転車はママチャリだったので、けっこうきつい。駅から自転車でだいたい40分ぐらいと聞いていたので、それなりに距離があるとは思っていたが、なかなか着かない。だんだん車の数が増えてきて、星野温泉と書いてある看板にぶつかった。そろそろ近くなので駐輪場に自転車をとめてすこし歩くと、ハルニレテラスがあった。駅でもらった無料ガイドブックに太字で書いてあった、軽井沢の人気スポットらしい。朝からコーヒーを飲んでいなかったので、コーヒーを一杯どこかで飲もうと思った。

しかし、いままでほとんど人に会わなかったのに、なぜかこのハルニレテラスだけ、ここは東京かと思わされるほど、人で賑わっていた。このコロナ禍で、いままで訪れた市村記念館や旧雨宮亭、はたや明治旅館では検温と健康チェックまでしていたが、こんなに密状態のハルニレテラスでは、マスクをしていない人は入店お断り以外の文字はなく、人混みで、カフェに入るにも並んでいた。同じ軽井沢でも、人気スポットか、そうでないかでこんなにも差があるのか、と思った。

人に誘導されるままの人気スポットに行けば、人は集中するだろう。だけど、みんながみんな興味のあるものが本当に同じなんだろうか。本当はもっと分散してもいいのではないだろうか。ハルニレテラスも素敵だが、離山公園も素敵だった。ここの半分ぐらい、離山公園に行ってもいいのではないか、と思うぐらい人口比率が違った。暑かったし、時間もなかったので、ここでコーヒーを飲むことは諦め、石の教会を徒歩で目指す。

看板がわかりづらくなかなかたどり着けなかったが、やっとたどりついた協会では、

「挙式中のため、いまのお時間は外観の見学のみとなっております」

と案内された。結婚式場の候補になるぐらいの場所なので、そこにいた人々はほとんどが若いカップルだった。内村鑑三が宗教色のない教会を作ったということで気になっていたのだが、中が見れないし、今は見れないし、またくることもあるだろうと思って、少しだけ外を見学して、またもと来た道を戻った。この石の教会での結婚式はどんな感じなんだろうか、とすこし興味があったが、それよりも暑かったので、駅に戻ることを選択した。

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しなの鉄道の車掌さん

長野県で好きなことの一つに、現金主義を貫く、しなの鉄道がある。特に駅の車掌さんの仕事ぶりが好きだ。いまだにこれだけキャッシュレスが普及しているのにSUICAさえ迎合しないのは、頭が下がる。車掌さんは、次の電車の時間を自らアナウンスしながら、切符を切っていた。2つのことを同時にやっている。次の電車の時間は頭の中に入っているようだった。

東京では本数も多いし、便も複雑怪奇だし、人数も多いので、それらを効率良くさばくために、システムが必要だ。しかしさばかれている私達はいったい何なんだろう。さばかれるシステムを利用しているから、移動時間は、無駄な時間だとみんながそうやって押しのけているのではないかと思った。

車掌さんにパチンとされた切符を持って電車にのることが、レトロでかけがえのないことのように思えるのは、いつも東京でさばかれる対象として、迅速に、金額不足でみんなの流れをとめるような迷惑なことをしないように、効率的に歩く流れをつくらないといけない、あのハイプレッシャーな鉄道のせいだろうか。

終わり。

戻りは、来たとおりに列車にのってまた7時間かけて帰る。それはそれは長い時間なのだが、普段考えないようなことをぼんやり考える。そんな時間があるから、今回の記事も書けている。普段読めない難しい本も、この余りある時間で読みきった。鈍行の鉄道列車の旅は、普段見えないことや、普段感じない時間軸でいろんなことを考えさせられるので、とても好きだ。また機会があったら別の季節に同じ路線で鉄道の旅をしたいと思う。

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