生きている「実感」について、『野口体操 カラダに貞く』の転載
先日(8月27日2021年)の一水空オンライン茶話会で、『自分は自然の一部だと感じられるとき』のトピックを立てて、皆さんの思いを交わしました。
このテーマに当たって、1977年出版された『野口体操 カラダに貞く』(柏樹社刊 野口三千三著)のなかで、「実感」についての話は大変印象深いので、その部分を転載して、皆さんと一緒に読んで頂きたい。
『野口体操 カラダに貞く』 P53-58
実感ということ
私はよく実感というコトバを使います。けれども、その場合、ほんとうに実感というのが分かっているのか、このことを絶えず自分で確かめてみていると、案外はっきりしていない。
たとえば、時間というものの実感。これがどのぐらいはっきりしているものなのか、自分で確かめてみるんです。
あまり長い時間というのも、あまり短い時間というのも実感がありません。数字は追えても自信がもてない。地球ができたのがだいたい四十五億年前、ずいぶん長いなあとは思うけれど、ではどのくらい前なのか、その実感がもてるかと言われると、全然自信がないんです。それならいったいどのくらいの時間だったら可能なのか。十年はあやしい、五年もちょっとあやしい、せいぜい一年なら何とかなりそうだ。これは春夏秋冬があるし、一年間の行事その他のことから、案外自信をもってつかめるような気がします。
それならば、四十五億年というようなことを考える場合、四十五億年を一年におきかえてしまって、確かめなおすことができるんじゃなかろうか。
地球生誕四十五億年を一年という時間におきかえると、ほかの事柄がどのくらいの時間になってくるだろうか、というような作業をするんです。そうすると、地球上に初めて生物(単細胞生物)が現われたのはだいたい三十億年前、これは五月の初めになる。多細胞生物が現われたのは約六億年前、これはなんとずっと新しくて十一月十日頃。人類が現われたのは通説でいくと今から約百五十万年前、最近の説によると約三百万年前だといわれる。これは、三百万年前とみても、大晦日の午後6時。百五十万年で午後九時。紀元元年は、一年の終わりの十四秒前ということになる。これはもうずいぶん新しく二千年はとんでもなくチョッピリのことだなあ、とわりあいはっきり実感できる。ニュートンの万有引力説が発表されたのが二百九十年前で、これは二秒前。明治元年は、わずか〇・七秒前になる。こうなってくるとだいたい実感できるような気がしてくる。
私はこれはうまくいったぞとばかり、来客にとくとくと話して、実感というのはこういうものだよ、と説明してごきげんでいたら、突如として家内が横からこう言うんです。
「その〇・七秒の感じと、一年と比較してはっきり実感がもてるんですか」と。
こう改めて言われてみると、全然とれがはっきりしない。簡単にできるような気がしていたんですけれど、ほんとうに比較できるかと言われたら、これはもうまるであやしい。
空間的な実感もまた同じで、天文学的数字というコトバ通り、からだの大きさや歩く距離などからあまりにも離れている巨大な空間の感覚は全くあやしくなる。
星の距離の差などは、知識として知っても実感としてはほとんどつかめない。太陽系の星と他の星との差さえもはっきりしない。太陽系を直感するモデルとして、堀という人が次のように言っていますが、面白いですね。「太陽を直径一四センチのソフトボールとします。一四〇万キロを一四センチとするので、縮尺は一〇〇億分の一です。すると、地球の軌道は半径一五メートルの円で(細かいことを言うと、太陽の位置は円の中心から二五センチはずれている)、地球自身は直径一・三ミリのけし粒です」「太陽系に、一番近お隣りの太陽、ケンタウルス座のa星は、直径一四センチの太陽を東京において、四〇〇〇キロ南下すると赤道に達しますが、それほど離れているのです。(地球は一五メートル)」
また、ある外国の学者が、生きものにとってそれがそれであるための物としての基礎である、DNAについて面白い計算をしています。「地球上の人類の総数を三十八億として、DNAの構造が同じ人は一人もいない。その違う構造をもった一人の一つの細胞の中のDNAだけを取り出して一ヵ所にまとめると、その容積はどの位になるか」と言うんですよ。どのくらいになると思います? ほとんど実感がなく想像もつきませんね。なんと、三十八億人の三十八億の細胞の中からDNAを集めて、やや大きな水滴一箇だそうです。その水滴の直径がどのくらいか、正確にはわかりませんが⋯⋯。さて、DNAは御存じのように二重らせん構造ですが、長くつながっていて、それが複雑に折りたたまれて細胞の中の核の中の染色体の中にあるわけです。このたった一つの細胞の中のDNAを仮に一直線に引き伸ばすとどのくらいの長さになるのか、なんと二メートルあるんだそうです。更に、一人の人間の細胞総数はどのくらいの数があるのか。学者によって計算方法の差で違いがありますが、六十兆から一千兆だということです。仮に最も少ない六十兆だとして、次のようなとんでもない計算が成り立つわけです。一つの細胞のDNAが二メートルだとすると、私のからだの細胞総数が六十兆だとして、私のからだの中にあるDNAを全部一直線につなぎ合わせると一二〇兆メートルになり、それは一二〇億キロです。太陽系の直径を冥王星の軌道の直径と考えて、それが一二〇億キロですから、なんと私のからだの中のDNAの長さと同じだということになるんです。計算でそうなると、それは事実かも知れないし、そうはいっても三十八億のDNAの容量が水滴一箇で、私一人のDNAの長さが太陽系の直径に等しい、⋯⋯この二つのことが、なかなか一つの実感として成立しないんですね。でも、私のDNAの長さが太陽系の直径に等しいというイメージは、「宇宙」という観念的なコトバが、私のからだという生な感覚と同じ土俵の上でとらえなおされて、親しみがわいてくるんです。
こんなふうに実感ということを、絶えず確かめていると、実感そのものがあやしくもなってくる。極端な場合には、何かに手を直接ふれてさえ、あれ、俺はほんとうにふれているのかなあ、と疑ったり、あやしんだりする。目の前に人がいて、その人と話していても、ほんとうに今、俺はこの人と話しているのかなあ、とふっと思ったりすることがある。
そのくらい実感というものは、ある意味ではあやしいんです。あやしいからこそ、私たちはもっとそれを確かめる作業をやらないと、生きているすべての事柄がほとんど宙に浮いてしまうようなことになりかねません。生きるということの確かさ、存在感、生活感、生活の豊かさなど、そういうもっとも生きがいにつながるような事柄は、そんな作業なしには成立しないように思えるんです。
上の文の中で、「太陽系の直径を冥王星の軌道の直径と考えて、それが一二〇億キロですから、なんと私のからだの中のDNAの長さと同じだということになるんです。」の計算は大変面白い!!
宇宙スケールの大きさは、とても私は「実感」できません。これに対して、体内にある60兆の細胞も「実感」できません。野口先生はこのとんでもない対照的な二つの世界を結びつけたのは、大変面白い例えになります。
もう一つ気になるところ:「今の世界人口は38億人との数字がありました。」この本の初版は1977年。今年の2021年から引き算すると、ただ44年間しか経っていないのに、今日の世界人口は78億、すでに倍以上になりました!!!下のリンクをクリックしてら、今の世界人口数が表示されています。https://www.worldometers.info/world-population/
今の世界、大きな変化の真っ只中だと思います。誰も経験したことがない変化の波、どう対処するのか?「生きている」というこを確かめるすべはどこにあるのでしょうか?野口先生の答えは:
こんなふうに実感ということを、絶えず確かめていると、実感そのものがあやしくもなってくる。極端な場合には、何かに手を直接ふれてさえ、あれ、俺はほんとうにふれているのかなあ、と疑ったり、あやしんだりする。目の前に人がいて、その人と話していても、ほんとうに今、俺はこの人と話しているのかなあ、とふっと思ったりすることがある。
そのくらい実感というものは、ある意味ではあやしいんです。あやしいからこそ、私たちはもっとそれを確かめる作業をやらないと、生きているすべての事柄がほとんど宙に浮いてしまうようなことになりかねません。生きるということの確かさ、存在感、生活感、生活の豊かさなど、そういうもっとも生きがいにつながるような事柄は、そんな作業なしには成立しないように思えるんです。
特ににからだというのは、たたいてみたり、つねってみたり、さわってみたりしても確かめられるので、特別な時でない限り、これがあるということを疑うことはない。そして、そのからだの動きというものの、変化というものの実感というのは、ちょっと気をつけてみるとだいたい分かる。だから、この実感を手がかりに、生きているということの感じを確かめるというのは、大変いい方法なのじゃないか。これが野口体操の出発点なのです。「確かめ」とは「手然目」で、自分の信頼できる手で、直接ふれて握って、そうだしかりだ、とそのことを目で見て納得することなんです。
野口三千三先生は戦時中に生まれた方で、野口体操の出発点は、戦後の日本社会において、どう立ち向かうことにあるだと思います。
現在私たちが直面する社会は、あれから更に激変しました。「私」とこれからを考えるとき、自分が置かれる状況は地球規模で考えねばならない時代になりました。こんなときでも、やはり「カラダ」は最もの手がかりだと私は思います。
カラダを丁寧に、真面目に、誠実に使って、他誰でもなく、世界に一つしかない自分のカラダの声を聞く、その声を受け入れます。これは、「今、ここに、生きている」を実感した瞬間だと思います。このようなカテゴリー、一水空は試行しようとしています。