清朝皇帝の食事はなぜ一日三食ではなくて、二食だったのか?
意外かもしれませんが、西太后さまも、清朝の皇帝達は毎日の食事は二回だけでした。
「進膳」(食事)の時間は季節によって多少変わりますが、
早膳は朝の6時-8時、晚膳は昼12時から午後2時の二回だけ。
清朝の前、中国を統治した明朝皇帝は、一日は三食でしたが、なぜ清朝になると、二食に変わったのですか?
理由はとても簡単:
明朝の皇帝は漢民族でしたが、清朝の皇帝は満州族です。
漢民族は主に農耕民族の中原文化。家の近くで畑仕事をして、昼は帰宅してご飯を食べる。一日三食の習慣は古くからあったようです。
それに対して、中原地方よりはるかに離れた中国の東北地方の山と森の中で住む満洲族は、狩猟民族でした。早朝に、家から遠く出かけて狩りするのはおもな生活手段でした。昼に家に戻ってご飯をすることは難しいので、一日二回の食になるのはその理由です。
上のタイトルの写真は、清朝皇帝が毎年狩猟時の場面を描いてます。
中国語の説明:
木蘭秋獮或稱木蘭行圍、木蘭圍獵、秋獮大典,是自清朝康熙二十年(1681年)至嘉慶二十五年(1820年),康熙帝、乾隆帝、嘉慶帝三代清帝參加的秋季狩獵活動。因古漢文稱春季打獵為「蒐」,夏季打獵為「苗」,秋季打獵為「獮」,冬季打獵為「狩」,故稱秋獮,或亦有人稱之木蘭秋狩、木蘭秋獵等。「秋獮」通常在八月舉行[1],共計105次[2]。其活動的木蘭圍場當時在承德府北境,即今河北省承德市、內蒙古自治區交界處。
清朝皇帝の食事時間は決まってますが、場所は決まっていないらしい。
皇帝がいる場所に、テーブルを運んできて、料理を並びます。
「天、地、人」という三つ大きいテーブルを使います。
二食だけだと、夜寝る前にお腹がすきませんか?と思いますよね。
実は、朝膳と晩膳の後、それぞれたっぷりのおやつが用意されています。
おやつと言っても、私達が思うものと全然違って、色んな種類のスープや点心、果物の数々があります。
これらは、贅を尽くした、栄養たっぷりの品々です。
清朝皇室毎日の食事の献立を、全て『照常膳底档』という皇帝の衣食住を記録する冊子に詳細に残されています。
一か月に一冊にまとめられたので、とても貴重な歴史資料になります。
使った食器まで記録しているので、それを読みながら、想像するのも楽しいよね。。
下の写真はラストエンペラー溥儀在位時、1909年12月1日の記録。
この時は、清王朝の繁盛期から大きく衰えたにもかかわらず、それなり見栄えはあります。
いま、清朝宮廷の食事を忠実に再現できるのは、
私の祖先、西太后の衣食住を管理する内務府大臣厲子嘉の後代は受け継ぐ厲家菜(レイカサイ)。本店は北京、日本支店は銀座にあります。