熱いのに熱くなれないパラリンピック
腕の無い人が泳ぎ、立ち上がれない人が車椅子に坐って剣技を競う。
目にする画面全てが奇跡のようなパラリンピック。
今回の東京五輪、香港はオリンピックの方で未だかつてない好成績を勝ち取りました。
なので、香港のオリンピック選手たちによるパレードも、多分初めて行われメダルを獲った選手を一目見ようと多くの人が街に出て選手たちの活躍を讃えていました。
それとは打って変わって、香港のパラリンピック代表選手たち24名(日本のパラリンピック参加選手は254名)の出発式に、見送りに立ったオリンピック委員会の委員は一人。
その委員が「パラリンピックの代表選手たちの努力も、オリンピックの選手たち同様に努力しています。」と発言しているのを聞いてチリっと怒りの炎が心の中で弾けます。
肉体や知能に障害がある人達が、健常者スタンダードでの「日常生活」に求められるハードルはとても高く、健常者に都合よく作られた社会の中で「普通の日常生活」を送るのに、健康な方が障害を持つ方に強いている苦労や努力や諦め。
表から見える動きはオリンピック選手と違い、小さく地味かもしれなくても「オリンピック選手同様」どころか、彼らの何倍も努力をして、ようやく競技として成り立つほどになっているハズで、そこんトコもう少し彼らの代わりにアピールしてくれてもいいんじゃないのと思いました。
今日、卓球女子11クラスの王婷莛(ウォン・テンテン)選手が、香港勢に初の銅メダルをもたらしました。
11クラスとは知的障害のある人達のクラスで、一般ルールと全く同じルールで行われます。パラリンピックの卓球競技は3位決定戦というのがないそうで、日本の伊藤 槙紀(いとう まき)選手が同じく銅メダルを獲得していましたね。
肉体や知能に障害を持ちながら、パラリンピックに参加する選手の人たちというのは、五体満足なアスリート達とはまた全然違う、欠けてしまったパーツを今残っている他のパーツで補うという努力。
手がないから頭で、足がないから手で、自分が使えるところを強化して臨むパラリンピックアスリート達。
先天性障害を持つ人達にとっては、それは生まれた頃からの「普通」であっても、パラリンピックのアスリート達が挑んでいるものは決して「普通」の事ではないのだから。
ラケットを首で振り続けるという大変さ、首は手のように関節を使って伸ばしたり縮めたりする事もできないし、ましてや手ほど自由にフォアとバックの軌道の切り替えが簡単に出来る部位でもない。そもそも、そんな試合の間中色んな方向に振り続けて平気でいられるはずがない。
ライブやコンサートで、ヘッドバンキング(頭をバンバン振る動作)を5分もしてみた事がある人は、同じ方向に頭を5分振り続けてさえ具合が悪くなる事が実感として想像できると思います。
義足と体のつなぎ目が全力疾走する時に、衝撃で外れたりしないのか、その衝撃は痛みを伴ったりしないのか、何もわからないし、想像さえもつきません。
それなのに香港ではパラリンピックの中継は、オリンピックのそれとは全く情況が違っているのです。
オリンピックの時は6つのチャンネルが、一斉に色んな競技をライブ中継していましたが、パラリンピックは1つか2つのチャンネルで、中継も限られた時間で見れる事もありますが、基本「見どころピックアップ」です。
熱の入れようが余りにも違いすぎ。
パラリンピックもガッツリ見れると思っていたので、ちょっと肩透かし感です。
パラリンピックのアスリート達が、オリンピックのアスリート以上に無理難題に挑む姿は、むしろオリンピック以上に大々的に宣伝して欲しいし、多くの人に見られて欲しいと思います。
むしろ学校とか教育現場で、道徳や保健体育の時間とかで鑑賞することにしたらどうなんでしょうと思うくらいです。
命の重さと生きる尊厳をこれ以上雄弁に伝えてくれるイベントはなかなかないのではと思います。
オリンピックとパラリンピック、スポットの当て方が香港のみならず、全世界的にあまりにも違い過ぎるような気がして、ちょっと切ない気持ちになりました。
ノー友のミシェリーさんが、こんな記事を書いていらっしゃって、私もホント、オリ・パラ何で分けられてるんでしょう。この案が実現できたらいいのにな~と思いました。
お陰さまで。